2015年1月31日土曜日

人間は度し難い 宮崎駿 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

 世界のゆらぎが私のいる小さな職場にも届いて、うかうかしているとただ流されるだけになってしまいそうです。道を乞う・・・・・・などと書くと、おふたりに叱られそうですが、この混沌の時代に遭遇して正直な気持でした。
 心情的左翼だった自分が、経済繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間だけはなりたくありませんでした。自分がどこにいるのか、今この世界でどう選択して生きていくべきか、おふたりなら教えていただけると思いました。
(中略)
 恥をかくというつもりはなかったのですが、残念なのは自分の力不足です。日頃、言葉の定義をあいまいにして来たむくいでもあります。もっとつっこむべき瞬間を、何度も私は逃しました。立ちどまって考えている間に、会話は次へ進んでいったりしました。
 忘れられないのは、
「人間は度し難い」
 と司馬さんがおっしゃった瞬間でした。堀田さんが坐りなおしつつ、
「そうだ。人間は度し難い」
 と応えたのです。大きな元気な声でした。
(中略)
 私事で申し訳ありませんが、死んだ母のことを思い出していました。
「人間はしかたのないものだ」というのが彼女の口癖で、若い私と何度も激しくやりとりしたのです。戦後の文化人の変節について彼女が語るとき、不信のトゲは何かいたたまれないものがありました。
(中略)
 もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る目差しが欲しいとつくづく思います。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、あとがき 宮崎駿、p270~272

関連場所、商品

モンゴル高原へ戻る 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

司馬 モンゴルの高原の草原に行くと、やはりいまの地球は間違っているんじゃないかと思います。草だけをエネルギー源にしている。石油じゃなくて。牛や馬に草を食わせて、それのお余りをいただいている。完全な生産形態と消費形態とがある。草原での燃料は牛の糞の乾いたやつをつかう。あれは青色が出て、いい火力です。野蛮じゃない。秩序ある体系的な大文明です。
 ともかくいざとなったら、私どもはそこへ戻れるんだと思うと気が楽になる。私にとって、モンゴル高原のことを考えるのは若いころからの娯楽なんですけど、この秘かなる娯楽があるおかげで世の行く末ということを考えても、あまり憂鬱にならずにすむんです(笑)。
堀田 それはいい(笑)。それが文明ですよ。
 二◯◯一年で二十一世紀がくるわけでしょう。司馬さんも言われましたように、それまで一◯年を切ってしまったこの間に、人殺し騒ぎをやってる連中を全部やめさせ、自然破壊をやめさせると、そういう世界会議が必要です。
司馬 必要です。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、8 地球人への処方箋、二◯◯一年一月一日への世界会議、p239,240

関連場所、商品

オランダに学ぶ時代 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

司馬 世界で、いちばん公害問題で地球規模で心を痛めているのは、オランダでしょう。真の意味での先進国だと思います。つまり二酸化炭素が増えれば地球があったかくなって、北極の氷などが融けて海面の水位が上がればオランダは水没して国がなくなります。
 オランダはゼロメートルのところが総面積の四分の一以上ありますでしょう。ですから、先祖代々、紀元前一世紀のシーザーによるローマ軍の侵入のころから営々としてダムをつくり、海面を干拓し、やっとここまできたのに、二酸化炭素の増加で地球が温暖化すれば、水面下の国になる。それはかなわないので自動車の排ガスを世界的になんとか規制しましょう、と言っている。でも、日本もアメリカもいい返事をしない。
 だから、オランダの提言が新しい文明の主題となるときが数年後にくると思うんです、抑制こそ文明だという時代が。
堀田 環境関係の会議は、たいていオランダで開かれます。ハーグか、アムステルダム、ライデン。しかもしょっちゅうやっています。国際的な人を集めて、あの人たちは必死ですね。
司馬 必死です。いま私らはオランダ人に学ぶことは二つあります。
 一つは土地問題です。オランダの土地はほとんど国有地で、その上に産業が乗っかっている。地代を国に払っているだけです。たとえばアムステルダムで最近できた日本人学校は、国から敷地を借りました。日本の小学校と同じ規模の校庭があって、地代は年に一ギルダー、七◯円ほどです。
 二つめは多民族国家になってしまったことです。戦後、植民地解放でインドネシア人がはいってきました。何人かに一人がカラードです。オランダの小学校教育の、かれらを差別するなという徹底ぶり。オランダ憲法下にいて、オランダ国籍のある人は、同じオランダ人、一ミリの違いもないオランダ人だ、と。なぜかというと、差別することによって後で反乱を起こされたら、オランダそのものが消える。
 人間はみなものを考える力をもっているのに、政治に生かすことができない国が多いですね。それがオランダはうまくいった。だから、オランダというのを学びなおすという時代がきています。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、8 地球人への処方箋、オランダに学べ、p232~234

関連場所、商品

結局、オランダのように自分の身に実害がないと、環境問題をどうにかしようとは思わないんでしょうね。とか、言っていると問題の解決にならないので、世の中では一生懸命、環境問題に取り組んでいる人がいるんでしょう。頭が上がりません。

いい家と人と庭、その継承 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

宮崎 ふと見かけたいい家を訪ねていく、という仕事をある雑誌で始めているんですが、いい家というのは、家と人と庭が-植物ですが、いっしょに年とっていく家ですね。家のつくりがいいとか、材料がいいとかいうのは、それは何年かたつと関係なくなります。
 震災直後に建てたちょっとハイカラなぼろ家でも、そこに住んでいる人が、その家と庭をだいじにしているといった家に出会うと、私はもうとても幸せな気持になるんです。家と人間とがいっしょに年とっていくのを見ると、日本はすてたものではないと思うんです。
 ですから、日本の家というのを考えるときに、自然と時間とのかかわり合いなんだと思うしかないのです。でもいまの家というのは、時間の経過を拒否する建物ですから、どこかで音をたてて変わり始めているという感じがします。
司馬 私は、相続税は文化を破壊する、と書いたことがあります。文化というのは、礼儀作法に見られるように、元来、家つきものですよ。庭がどんなに小さくても、その庭によってある美意識が養われるならば、これは文化の道なんです。その庭を四分して売らなきゃ相続税が払えない。これは、完全に文化の破壊です。自民党の連中にそう言ってみてもぜんぜんわからない。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、8 地球人への処方箋、家、p216,217

関連場所、商品

相続するだけなのにお金が取られる。これが常識なんでしょうが、本当にこれは常識としてあっていいことなのかな?と思いました。

高級品 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

宮崎 いまの日本は、世界中からイカとエビを集めて、食いあさっています。食べすぎですね。
司馬 日本の豊かさというのは、いい悪いはべつとして、そんなもんであって、カニなんかでも、マツバガニでもズワイガニでも、以前はほとんど土地の人が旬に食べていたものを全国の調理屋が出す。
 松茸だって、近畿地方と四国の人、瀬戸内海岸にの人だけが食べていた。あれは主婦が今日の料理もなんにもないと思って、一山一銭か二銭の松茸でご飯でもしようかという程度のもんだった。私ら子供のときです。
堀田 私は明らかに覚えてますけど、貧乏なうちの子供がおなかをすかして学校から帰ってくるでしょう。「なんか食べ物ないか」っておふくろに言う。そうすると、おふくろがそこらにあったカニのでっこと太いアシを一本ちぎって、「これでも食べとけ」って(笑)、北国ですからね。そういうだぐいの食べ物でした。
司馬 つまりそういうものを高級料理屋が津々浦々までいつでもしょっちゅう出すということになると、品薄になって値段が高くなる。だから高級品になってしまうんですね。こういうバカなことをしているシステムが豊かさなんであって、それをやっぱり皮肉に思わなきゃいけませんね。そのために流通のロスがずいぶんある。土地の食べ物で満足しなくなったということがあります。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、6 食べ物の文化、うまさは国力から、p203,204

関連場所、商品

値段の高いものは、なぜそれだけ高いのかをもう一度考えるきっかけになりました。

貧乏であることの誇り 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

司馬 フランシスコ・ザビエルが感動的に書いていますが、ヨーロッパでは富に栄えるもののみが正しくて、貧しいものはそのことを恥じるけれども、この国の民は貧しさを誇りにしている、これはクリスチャンになるにふさわしい民族だということを報告しています。
 そもそも日本人は、ここ最近のようにこんなに富を得ようとはだれも思っていなかった。どちらかというと、われわれは千数百年来、食っていければいいという理想だけをもっていましたし、江戸時代の侍も明らかにそうでした。これは万人がそうでしたね。時々、奇妙な人が成金になるだけで、その人をばかにしていました。そういう意識があるかぎり、日本人は大丈夫だと思いますね。私はそれはじつによくわかるんです。その点わりあい感じはいい国だとは思うんです。
 ところが、くずれつつありますな。このあいだ、検事が汚職して何万かもらった事件があったのには、もう暗然とした。カトリックの神父さんが独身であるように、検事は清貧でなければならない、と自他ともに思っている。検事であることの清貧を楽しむか誇りに思うために、一生懸命勉強して検事になるんでしょう。貧乏であることでみな尊ぶわけでしょう。それが汚職してもらったら困る(笑)。
堀田  今朝の新聞を見たら裁判官までそうだという。これは度しがたい。日本の将来も度しがたいね、これは(笑)。
 貧乏であることを誇りとしているというこの伝統は、いまヨーロッパのほうが目立ちます。
 たとえば中産階級以下は、それぞれ庶民であることを楽しんでいる。上にいこうとは思わない。昔のパリでは、ルイ・ヴィトンのものを持つならば、自動車はロールス・ロイス。そういうふうになっていたわけでしょう。だから中産階級以下は、そういう高級品を持とうとはまったく思っていないわけです。
司馬 「武士は食えねど高楊枝」といって、侍は貧乏、町人は金持ち。だけど侍は尊ばれている。それはヨーロッパでも質素というのは貴族の徳目の一つです。だからわれわれ日本人はいままでいいモラルをもってきたんだけれども、いまからは再びちょっと開発せんとだめですな(笑)。新しい事態がこうやって起こっては。
堀田 スペインのドン・ファン・カルロスという大さまが銀座の服部時計店へ行ったとき、真珠がずらっと並べてある、それを見て「われわれのような階級にはいらんもんだ」って言ってた(笑)。
宮崎 成金になるとしばらくの間、熱が冷めるまではしょうがないでしょうね。なんでも買いあさった挙げ句、もうどうでもいいやと思うようになるまでは。イギリス人だってここへくるまでものすごく傲岸な時代があったでしょう。
司馬 そうそう。夏目漱石はロンドンの街を歩くと、イギリス人は全員高慢な顔をしているという。なるほど、いま行っても高慢な顔をしてますな(笑)。アイルランドに行くとみな和やかなんだ(笑)。
宮崎 和やかで居心地いいところでした。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、6 日本人のありよう、ザビエルがほめた徳目、p165,166

関連場所、商品

お金があればアイルランドに行ってみたくなりますね。

背伸びをすればするほど自分を見失う 日本経済新聞/朝井リョウ

 就活を振り返って思うことがある。「当時、若手社員を“神”と思いすぎていましたね。彼らに比べたら、自分は何のスキルもない。だけど、同じにならなきゃ内定が取れないと勘違いしてたんです。面接官と対等に話をしなければと、背伸びして空回りもしていました。同じ目線で話すなんて無理なのに。だって学生なんだから。自分が会社に入ってからできることを増やしていけばいい、そうなれば社会人の会話もできるようになるってことが分かっていませんでした」
 自分をよく見せなきゃと背伸びをすればするほど、自分を見失っていくのが就活なのかもしれない。面接官はこちらが学生であることは百も承知。学生である今の自分ができること、言えることを地に足をつけて伝えればいいのだ。
 他の学生たちの自己アピールがすごいものに思えても、気にすることはない。実はみんな思っている。「ほかの人に比べて、自分のアピールはなんてショボイんだ」と。
 もし、何を言えばいいのか分からなくなったら……。「面接官が喜んでくれることを考えてみるといいかもしれません。僕なら『日曜日に御社の売り場に足を運んで見てきました』と言われたら、うれしいです。学生にできることってそういうことじゃないのかな」


・出典
日本経済新聞、「若手社員は神じゃない」 直木賞作家 朝井リョウ氏が語る就活
http://goo.gl/cGMDP3

・関連場所
日本経済新聞
http://www.nikkei.com

朝井リョウさんTwitter
https://twitter.com/asai__ryo

・関連商品
  

本質のすりかえ  時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

堀田 私は、戦争中に軍令部臨時欧州戦争調査研究部という長い名前のところにいたんですけど、そこに毎朝、鎮守府からくる官報みたいなものがあって、その下のほうに軍艦の名前が、軍艦何々、何々、何々、と並んでいるのです。その横にぜんぶ、「艦籍を削る」と書いてあるので「艦籍を削るってなんのことじゃ」ってきいたんです。そうしましたら、それは沈んだという意味だというんです。はあ、なるほど、艦籍を削るとはそういうことか。人が死んで戸籍を削るのと同じ。
司馬 つまり、英語圏では、はっきりと沈んだとか、何人殺されたという言葉をちゃんと普通に使うのに、日本は玉砕したとか雅語に近くなる。とにかく言葉で巧みに本質をすり抜けるようにできていますですね。
堀田 それは敗戦ではなくて、終戦というのと同じ。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、6 日本人のありよう、「名こそ惜しけれ」の生きかた、p163,164

関連場所、商品

魔女の正体 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

堀田 昔、ヨーロッパに魔女というのがいたでしょう。この魔女というのは、女の患者さんが、とくに貴婦人が男のお医者さんに肌を触れられることを嫌った。しかし、お医者さんは必要、薬も必要だ。それで薬をつくるための女が必要になった。ヘビの頭だとか、ネズミだとか、それとどくだみだの薬草をいろいろとぐつぐつ煮なきゃならないからです。そんなことは町の中でやれないですよ。森へ行ってそこで大きな釜で火をたいてぐつぐつやるから、魔女ということにされたのですが、ほんとうは婦人用の医者なんですよ。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、5 宗教の幹、固陋な教会、p151

関連場所、商品

まさか、魔女が医者だったとは・・・。魔女は悪い奴だと思っていた。人は上辺だけで判断してはいけないな。

2015年1月30日金曜日

子供に全てがある 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

司馬 よく言うではないですが、子供は大人の父である、子供に全てがあると。子供が持っているイマジネーションというのはわれわれ大人にはかなわない、と古代人もおもっていたんですね。子供の動作を見て、これは神様が宿っていると。だから、子供と同じ階の踏み方をすると、神に近づいていけるという感じがあるでしょう。これは私のつけた理屈ですけれども、神主さんもよくやっています。こういうことが宮崎作品にならないかしらと思っているのです。
(中略)
宮崎 『となりのトトロ』で幼い女の子のした階段の踏みかたは、ただ小さいからそうしただけなんですが、日本、東アジアは子供を主人公にして、子供が活躍する物語が好きです。『西遊記』にも子供の神様が出てきて、力も技も大人と対等です。これはヨーロッパの人は絶対納得できない。大人と子供が戦って、子供が勝てるはずがないじゃないかということです。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、5 宗教の幹、一神論と凡神論の世界、p145

関連場所、商品

子どもから力を貰うこともあるし、雑念のない率直な子どもの意見に「あぁそうだな」と思わされることもありますしね。子どもというものを大人は見くびりすぎているかもしれませんね。

闇のたいせつさ 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

宮崎 闇というものを身近に、だいじなものだと思わないようになってしまった。つまり、古い家を全部壊してしまう。それと同じです。
堀田 蓼科に別荘をつくってから、三年間電気がこなかった。そんな生活は大変でしたけど、たいへん気持よかった。ランプでしたけどね。夜寝るときなんか、いくら酒飲んでも、なんだかざわざわしている。
 しかし、そのうち二ヶ月ぐらいから、そのざわざわがないと眠れなくなってしまった。守られているという感じでしてね。
宮崎 闇と折り合いをつけていくのですね。
司馬 闇を悪徳だと昔の日本人はおもわなかったんですが、(中略)
堀田 キリストは、「我は光なり」とやってきたわけでしょう。(中略)
 ヨーロッパの森の中の真っ暗なところに住んでいる連中のところへ、お坊さんが、「我は光なり」と来たら、みんなドキッとしますよ。
宮崎 森と闇が強い時代には、光は光明そのものだったのでしょうね。でも、人間のほうが強くなって光ばかりになると、闇もたいせつなんだと気がつくわけです。私は闇のほうにちょっと味方をしたくなっているのですが(笑)。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、4 アニメーションの世界、闇のすばらしさを宮崎作品で、p30,31

関連場所、商品

闇であることは世間一般的にいうと毛嫌いされることもあるが、闇がなれければ光の明るさを大事には思えないですね。光があることが当然になっているので。衣食住に関しても同じことが言えそうです。

めちゃめちゃなアニメーション現場 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

宮崎 アニメーションというのは国籍不明ですから、怒涛のごとく近隣諸国へ発注が出ています。日本では人手が足りないから、海外へ持っていく。かならずしも安いから持っていくのではないのです。例によって何社も群がって発注しますから、向こうが足元を見てふっかけてくる。と、みるみる制作コストは上がりまして、いま、たとえば韓国で作っても日本で作っても値段は同じです。
 その結果、韓国でアニメーションの絵を描いている人間は、外車に乗ったりしています。日本と同じ給料ですが、韓国だったら高給取りになってしまいますから。しかも、各国から逆に日本に下請けに出てきたり、わけのわからないことが起こっているんです。めちゃめちゃです。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、1 二◯世紀とは、混迷するアニメーション、p123,124

関連場所、商品

目に見えない空気 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

司馬 私はアニメのファンのつもりでいます。具体的には宮崎さんのアニメのファンです。以前は、西洋人がつくった作品を喜んで観ていました。そしたら宮崎さんのが出てきまして、人間が立体で、絵の中で風が吹いてきたら、女の子のスカートがふわっふわとなってふくらんでいく。それで風という目に見えない空気の動きを表現している。東洋の天人や西洋の天使も空を飛ぶのですが、絵画では単に画面の上の方に遊泳しているだけですが、宮崎さんのは風が表現されているので、自分が飛んでいるような気持になります。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、 1 二◯世紀とは、武器のありよう、p30,31

関連場所、商品

人間の暗い落とし穴 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

司馬 ベトナムでは、人殺しの道具といえば村の鍛冶屋がつくったナイフだけでした。やっと一人が一人を殺しうる道具で、一ヶ月に三人も殺せば、ヘトヘトです。ところがベトナム戦争では、背の小さいベトナム兵が、熟練度もないのにバズーカ砲をかついで、一台五億円もする戦車を簡単にやっつけてました。それを文明だと思うところに、私ども人間の暗い落とし穴があります。普遍的思想と、最新兵器の普遍性とがかさなっています。
 キリスト教が広まったのも、イスラム教が広まったのも、「これは普遍的なものなんだ」といった思いからでした。それに加わらないと自分たちが田舎者になってしまう。イスラム教の場合も、二、三百年前、インドネシアの山の部落の人々が、商いのためにマラッカ海峡まできてイスラム教に接すると、これが普遍的なのだと思って結局イスラム教徒になった。そしてイスラムから来た商人と商取引をする。「同じだ、同じだ」という気分があって、たがいに安心できる。だから大宗教が広まったのでしょう。
 兵器もそうですな。女の子が「いまこれが流行っているのよ」ということで新しいスカートをはくように、人類は兵器に関しても、そうした普遍的なものを持ちたがります。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、 1 二◯世紀とは、武器のありよう、p30,31

関連場所、商品

普遍的に広がっているものに対して、疑問を持たないと振り回されてしまいそうですね。一般的に高級ブランド品が高いのは出店している場所の土地代と広告費を回収するためです。例えば、ルイヴィトンの香水が道端で瓶に詰められて売られていても誰も買わないでしょう。それは都心の高級品店街で売られているからこそ価値があるんです。なんてことを、この前、糸井重里さんが言っていました。

毒殺の芸術 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

宮崎 二◯世紀の大きな特徴は、武器を各国が競うように持ったことにあるのではないでしょうか?
司馬 (中略)殺すということでは兵器を、しかも大量に殺戮できる兵器を、機関銃から始まって最後に核にまで至るものを二◯世紀になって作ったということです。兵器は全部、人を殺すための道具ながら、これが進歩の証でしたね。
堀田 ある個人を標的とした毒殺ということでは、ルネッサンス時代の人間は非常に詳しかった。それがイタリアのPistoiaでピストルが十六世紀半ばに発明されたとたんに、毒殺知識がどーっとなくなった。
司馬 イタリアでは毒殺までが芸術だったですな(笑)。
 ジョルジュ・シムノンのメグレ警視がアメリカの犯罪を罵ってますね。彼らはプロの犯罪者だといって。フランスの犯罪者は全部素人だから、われわれが芸の細かい調査ができるんだと書いている。二◯世紀早々から、アメリカのギャングは、殺したいたった一人の人間を、自動車で走り抜けつつ、街頭で機関銃でやる。あんなことをやられちゃ、人間の心理の機微に分け入るメグレ的な捜査法があがったりになります。(笑)

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、 1 二◯世紀とは、武器のありよう、p29,30

関連場所、商品

機械化、自動化の弊害は人間らしさが失われるところにあるんじゃないでしょうか。

老子の理想の国 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

司馬 老子の話ですが、小さい国がいいと言っています。その理想の国の規模は北朝鮮よりもずっと小さいのですが、船も車も遠くへ行くから国家の敵であり、たとえば、平壌で人民がもっていい車輌は自転車だけです。それも遠くへ自由に行ってはいけない。物資も情報もはいってこないほうがいい。たとえば、ラジオは国内の電波だけに限られている。着る物は自分で織ればいい、これが老子の理想の国です。北朝鮮の場合、戦車や戦闘機をたくさんもっていることに目をつぶれば、国家が国民に要求しているのは、老子の国に似ていますね。べつに老子をモデルにしたのではなく、偶然状況が似たのでしょうけど。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、 1 二◯世紀とは、「書生」として、p11

関連場所、商品

都道府県がそれぞれ国のように機能すればいいんじゃないか、と、浅知恵ながら思いました。

人類的な規模の観察者 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

司馬 江上波夫さんが、あの好奇心の塊のような人が、二年ほどまえに北朝鮮にいらしたのです。ちょうど帰ってこられたころにばったいと大阪で会ったので、「いかがでしたか」と聞きました。そうしましたら、ああいう巨人の感想というのはおもしろいですな。何を見に行ったかというと、古代、ピラミッドでも万里の長城でもたいへんな人の手作業ですが、どのくらいの日数がかかったかという計算がいまの学問ではできない。
 それが北朝鮮に行けばわかると思っていったそうです。スタジアムをレンガ積んで作ってる。初めはなかなか進展しないで、時間が長くかかる。ところが人間というのは、ある時期からおもしろくなってくるらしい。だんだんスピードが上がってきて、「案外われわれが思っていたよりも早くできますよ」と言われるのです。それだけを見にいくだけのための旅でした。
宮崎 それはすごい。
司馬 こういうレベルの観察者にはかないません(笑)。体制がどうだとか、そんなことに関係ない。
 (中略)人類的な規模をもった観察者が日本にはいるということで、ちょっと心強い。いい話でしょう。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、1 二◯世紀とは、「ユニーク」な国々、p24,25

関連場所、商品

昔の建築物ですごいなと思われるものでも、案外当時の人たちは作ることを楽しんでいた可能性もありますね。だいたいすごいなと思われるような人でも、その人からしたら当然のことをしているだけですよって顔しますもんね。

本音で商売 時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎

宮崎 私は子供を相手に商売をしているものですから、子供たちの状況というのが気になるわけです。子供たちに向かって、大人としてこれなら本当だといえるものを作っていかないと、要するにリップサービスで愛だとか友情だとかいうのではなくて、本音を語らないと子供たちはまったく受けつけません。

・出典
時代の風音/宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎、 1 二◯世紀とは、「書生」として、p11

関連場所、商品

嘘が一番通用しないのは子どもなのかもしれません。

お手本となる師匠 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 何か失敗すると、つい何か人のせいにする。自分の責任を人になすりつける。そんなのは日常茶飯事でして、私たちはまことにくだらないことに執われていきているわけです。
 そういう生きかたはまずいというので、わざわざお寺へやってきて、頭を剃って、質素な生活をし、修行をして、正しい生きかたを探し求める人間もいるわけですが、その場合、年長者がいてはじめてお寺の生活が成り立つという思いを強くします。まわりが同世代や年下ばかりだと、手本となる人がいませんから、一念発起してお寺に修行に来ても、おそらく成長することができないでしょう。
 むかしの日本には、長幼の序というものがあり、年長者を敬う気風が強かった。私たちのお寺でも、お師匠さんや先輩の言葉をきちんと重んじて、お叱りを受けながら自分の悪いところの改善に努めます。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、距離、p170,171

関連場所、商品

師匠と弟子 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 仏道修行はひとりのお師匠さんにお支えしなければ成就しませんので、ご縁があった師匠に礼儀を尽くすのですが、しかし、師匠と同じことをするだけではどうにもなりません。真似ごとではだめなのです。自分自身の人生を自分自身で工夫して、気持ちが軽やかに、幸せに、明るくなるように、そして、どんなことにも執われない心をつくらなければなりません。それは個々人の創意工夫です。しだがって、たくさん弟子がいても、結局は別々の道を歩いていくことになります。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、礼節の意味、p159

関連場所、商品

早く、ていねいに 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 さて、お坊さんになって最初に言われるのは、
 「早く、ていねいに」
 ということです。「雑で遅い」のはもちろん駄目ですが、「遅くてていねい」でもいけない。「早く、ていねいに」。口で言うのは簡単ですが、実際にやるのは簡単ではありません。口で言うのは簡単ですが、実際にやるのは簡単ではありません。では、そのときに何が大切か。私なりに思ったことが三つあります。
 第一に、ありとあらゆる最悪なことを予想し、どんなことが起きても、きちんとていねいに仕上がるよう手段を講じておくのです。これは、相手に対する気づかいです。
(中略)
 ふたつ目ですが、ひとりで仕事をするとはかぎりません。大勢の仲間と一緒に仕事をすることもよくあります。もし自分から半径一メートル以内しか見えていないとしたら、仕事はうまくいきません。相手の動きを見て、先輩がいたらこう、お師匠さんがいたらこう、と、痒いところに手が届くように、きちんと心の連携を結んでいかなければ、早くていねいに仕上げることはできません。
(中略)
 大切なのは三つ目、「まごころ」です。「まごころ」がなければ、どんなに早くてていねいな仕事でも、何だか冷たい行動になってしまう。まわりと連携し、いろんなことを予想するなかに、「まごころ」があってこそ、その人が一人前のお坊さんとして認められるのではないかと思います。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、人生の助言、p156~158

関連場所、商品

日常の挨拶や返事 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 長年お坊さんをやって、大きな失敗から小さな失敗に至るまでいろいろ経験しますと、日常の挨拶や返事なんて、とてもあたりまえのことなのですが、ここがちゃんとできていないと、人生がうまくいかないとわかってきて、言葉や挨拶を粗末にするのが怖くなってくるのです。自分が誰かに不快な思いをさせたら、まわりまわって必ず自分に返ってきます。だから何ごとも自然とていねいになってきます。
 みなさんも、じぶんがどういう人間なのか第三者に訊いてみるのも、人生のヒントのひとつになるのではないでしょうか。一度しかない人生ですので、上手に生きてほしいと思います。
 ここで「上手に」というのは、別に人を陥れて自分だけがうまく立ち回るとか、そういういみではありません。大自然には何か見えない決まりごとがあり、それを真理ともいいますが、仏教では「正しい理念」ということで、「正理」といいます。この「正理に生きる」のが、人間として一番理想的な生き方だといわれます。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、人生の助言、p153,154

関連場所、商品

つくり笑い 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 先日、ある会社の事務所にお伺いしたときのことです。
 「こんにちは!」
 と、ひとりの社員さんが私に向かって大きな声で挨拶しました。他の社員の方も次々と、
 「こんにちは!」
 「こんにちは!」
 「こんにちは!」
 と元気のよい挨拶を私に投げかけ、満面の笑みで迎えてくれました。
 しかし、私が受けた印象は-いや、私だけでなく、そのときにいた人みんなが受けた印象だと思うのですが-彼らの笑顔はロボットのようなつくり笑いにしか見えなかったのです。
(中略)
 笑顔で挨拶し言葉で表現してみても、心が伴っていなければ、つくりものであるのは一目瞭然です。ただ威勢がいいだけで、あまり気持ちのいいものではありません。それに、みんなばらばらに朝いつすると、すぐさま自分の仕事に戻ってしまう。
 「あれ、これ、ほんとうに仲よく仕事してんのかなあ?」
 そんな疑問すら浮かびます。強制でやらされているような感じもありますし、言葉のはしばしに、ひょうとっしてこの人たちはリーダーを尊敬していないのではなかろうか、という印象すら窺えたのです。
 「こうなっちゃいけないな・・・・・・」
 と、その会社は私の反面教師になったわけでして、私は、本当に心と心で繋がっていく人間関係をつくらなくてはならない、これが現代社会にたりないところだから、伝えなければと心を新たにしたのです。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、人生の助言、p151~153

関連場所、商品

人の器 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 人はいろんな器や役目を持って生まれてきます。湖でいえば、世界中には、大きい湖、小さい湖、深い湖、浅い湖など、さまざまな湖が存在しています。たとえば小さい湖を家庭にたとえると、おとうさんとおかあさんが精一杯努力して家族を幸せにしようとする輝かんばかりのきよらかな気持ちとします。一方大きな湖は、何百何千という大きな組織をたばねる社長さんだとします。でも湖の大小はどうでもいいのです。大切なことは、その湖の水がいかに澄んだ清らかな水かどうかということなのです。
 人はどうしても、会社をどんどん大きくしたいとか、有名になりたいとか思いがちです。男性は特にそうです。それは一面では大事なことではありますが、天から与えられた器があれば、自然にどんどん大きくなるのです。下手に欲を出して大きくすると、あとで大きなしっぺ返しが来る。これは因果応報とは違いますけれども、大自然のひとつの法則のようなものです。だから欲を出すのではなく、与えられた環境のなかでいただいたお仕事をひとつひとつ丁寧に心をこめてさせていただくということなのです。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、人生の助言、p148,149

関連場所、商品

お坊さんになりたい方へアドバイス 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 みなさんが人生をよりよく生きたい、上手に生きていきたいと思うのであれば、とりわけこれから頭を剃って、お坊さんとなって、仏道修行を極めたいと思われる方に対しは、失敗を重ねた私の体験から申しあげられるアドバイスが、三つあります。
 まず第一に「世界で一番心の澄みきった人間になりたい」と思いつづけることす。「清らかな心の持ち主になりたい」と願うことです。ただし「自分が一番だ」と思ってしまったら、そこで成長は終わりです。人生の夢や目標を持つことは大事ですが、夢と目標はあくまで通過点です。夢を成し遂げ、目標に到達した時、次の段階へ進まなければ成長はありません。
 (中略)
 ふたつ目は、どんな人に対しても敬意を払うということです。人を敬う気持ちが大事です。たとえ幼い子供であっても、自分自身に人格があるのに同じように尊い人格があるわけです。
 (中略)
 三つ目は、自分自身が幸せでなければならないということです。自分の心が潤っていなければ、まわりの人に幸せを分け与えることができないからです。
 (中略)
 「われ、ただ足ることを知る」(吾唯知足)
 という言葉があります。いま与えられている環境に満足し、感謝することを忘れてはいけないということです。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、人生の助言、p147~151

関連場所、商品

日々の心構え 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 ひとりひとりの人生に、どうしようもないシナリオはあります。平坦な道を歩んでいるようでも、ある日突然、思いもよらぬ出来事に遭遇するものです。しかし、それをよく生きるも悪く生きるも、自分しだいです。心というものは、よいほうへも悪いほうへも、どちらでも傾きます。その心をいかにようほうへ傾けてやるか、そのコツは、辛くて苦しい立場に置かれても、それを前向きにとらえ、決して恨んだり憎んだり嫉妬したりせず、淡々と日々の生活をすることです。
 恨みや憎しみは、おそらく大自然の原理原則に反することですから、天に向かって吐いた唾が自分に落ちてくるように、恨みも憎しみも自分に返ってきます。同様に優しさと笑顔を忘れずに生きていれば、いつのまにか雨がやんで晴間が広がっていくように、私たちも晴ればれとした境地を迎えることができるようになります。話を聞き、あるいは本を読んで、頭で理論的にわかっただけではいけません。実際に笑顔を浮かべ、明るい心を持って、日々を送る。これが肝心です。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、修行修行の落とし穴、p143,144

関連場所、商品

・関連記事
人生の心構え 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

お坊さんの見分け方 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 難行苦行をしてしまうと、どうしてもそこだけにスポットライトが当たります。みなさんに興味を持っていただくのはありがたいことですが、苦行をやりぬいた人だけが偉いという感覚があるなら、それは違う解釈なのです。もし難行苦行のみを自慢しているようなお坊さんがいたら、「あれ?」と思ってください。それぞれの人生は、それぞれに難行苦行です。その難行苦行をいかに上手にいきていくか、いかに善なる方向へ転換できるかというのは、私たちひとりひとりに課せられた人生の行なのです。
 行にはじまりも終わりもあるように、人生も数十年という与えられた期間しかありません。その与えられた期間のなかで、できるだけ自分の心を高いところへもっていかなければなりません。だから宗教者は、みずからの体験で得た境地を伝えて、みなさんの人生のお手伝いをさせていただかなくてはいけません。
 師匠に教わったことを今、みなさんにお伝えし、また誰かが同じようなことをどこかで伝えていくのでしょう。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、修行修行の落とし穴、p144,145

関連場所、商品

宗教者の修行 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 心を一定の高みに登らせて、人生の真理といいますか、何らかの妙教に至るためには、たいへんな努力が必要です。宗教者は多くの書物を読み、さまざまなことを学んで、自分づくりをいたします。ときおり自分自身と対峙し、自分の心を見つめるために、厳しい行をしなければならない時期もございます。
 しかし、いったん大自然の真理に触れ、妙教に至ることができたならば、神仏に仕える宗教者は、そういう生きかたのヒントをみなさんに説かなければいけないのです。いつまでたっても山を歩き、厳しい行に打ち込むばかりでは、誰にも何も伝わりません。修行期間で懸命に勉強し自分づくりをし、心を高みに登らせることができて何かを知りえたならば、今度はみなさんに恩返しをする。これがお坊さんのあたりまえの生きかたです。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、修行修行の落とし穴、p142,143

関連場所、商品

2015年1月29日木曜日

自分の利益 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 「人に何かあげるとき、お礼を言ってもらおうとか、見返りを求める気持ちはよくないことなんだ」
 私はハッとした。いまも鮮明に覚えています。
 そういえば母は、私が高校生の頃、こんなことも言っていました。
 「友達とつきあうときには、いっさい自分の利益を考えてはいけません」
 正直にいえば、そのときはその言葉の意味がよくわかりませんでした。また、母はそんなことを言ったなんてとっくに忘れているかもしれません。しかし私はその言葉を胸に深く刻んで、人間関係で何かあるたびに思いだして、今日までの人生を歩むことができました。感謝のほかありません。
 生きていく上で大切なことは、出会った人や向かいあっている人のことをいかに深く思って、自分自身の言葉や優しい笑顔で答えてあげるかということです。(中略)
 世の中には「世のため人のため」としょっちゅう口にする人がいます。しかし私のお師匠さんはこう言っておりました。
 「世のため人のため、と一日に何度も言って生活しているやつに、ろくなもんはおらん」

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、日常が行、p136,137

関連場所、商品

言葉と行動で人間はわかりあう 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 はるか二千五百年前、お釈迦さまは尼連禅河のほとりで座禅を組まれて、ついに大きな悟りをひらかれた。しかしお釈迦さまは、自分が得たこの心境は人にはわかってもらえないとお思いになり、いったんは説法を断念された。なぜかというと、お釈迦さまは、言葉や文字の限界を熟知しておられたからです。
(中略)
 説法とは、自分の思いを文字や言葉に託して多くの人に対して表現していこう、伝えていこうとすることです。しかし、「清く正しく生きる」という単純明瞭な言葉でされ、みなさんの人生経験のかなでしか解釈したり意味を感じることはできません。しかもみなさんは、生まれた時代も、育った環境も、人間関係もすべて違います。「オギャー」と生まれて今日に至るまで、さまざまな経験を積み重ねて現在のその人がある。なので、十人いれば十人それぞれの解釈があるのです。
 それでも私たちは、自分の真心とか優しさとか愛情を家族や友人に伝えようとしたら、言葉と行動でしか示せません。自分は本当はこう思っているのに、なぜわかってくれないのだろう、と歯痒い思いをするのは、誰しも経験するところです。人間がわかりあうことはたいへんにむずかしい。そして、もしわかりあえたとしても、価値観や利害関係が違えば、やはり仲違いすることになります。まさにこの日常が行であります。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、日常が行、p133~135

関連場所、商品

求道心 忘れて捨てて許す心/塩沼亮潤

 私の経験から言いますと、人生は、よいことも悪いこともすべて半分半分だと思います。ただ、何かの縁でプラスなことをいただいても、それをマイナスに変えてしまう人もおり、マイナスなものを与えられても、プラスに転じられる人もいるのです。そのためには、この日、このとき、この一瞬を、どうしようもなく大切に思う心、すなわち求道心が重要なのです。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、自己を見つめる、庭、p124

関連場所、商品

・類似記事
心を養う食事 心/高田好胤

相手は自分自身 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 「人を相手にせず、天を相手にせよ」
 少し言い換えれば、「人を相手にすることなく、自分自身を相手にせよ」。忘れて、捨てて、許して、そして人には微笑みをもって生活をする。(中略)。決して人からよく思われたいと思うようなことなく努力していても、もし万一、人から褒められれば嬉しいでしょう。そしてその喜びがまた自分自身の情熱という炎に油を注いでくれるのではなかと思います。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、自己を見つめる、精進、p104

関連場所、商品

生きかたの道しるべ 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 世の中にわからないことはたくさんあります。しかし、わからないことは、わからないままでいい。たとえば、世の中は永遠につづくのか? 宇宙は無限なのか、限りがあるのか? そんなことを考えていたら、人生はあっというまにおわってしまいます。これを「捨置記」といいますが、お釈迦さまは、人間の思考を超えたものに関しては、いっさいお答えにならなかった。ただあるがままに、天地の道理にしたがっていきてきた。それが大事なのだというのです。
 生きかたは人それぞれにあると思います。しかし、どのように生きるかという道しるべは、誰しも必要だろうと思います。
 お経のなかにいい言葉があれば、それを道しるべとすればいい。「清く正しく生きていく」という言葉が自分に一番合っていると思えば、そのように歩んでいく。いつもニコニコ笑っているあの人みたいになりたい、と思えば、そんな生きかたができるように、自分が歩んでいけばよい。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、自己を見つめる、精進、p104

関連場所、商品

お釈迦さまの依りどころ 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 自灯明、法灯明

 これは、お釈迦さまが弟子に遺した最後の言葉です。自分自身の心を灯とし、依りどころとして、この大自然の真理そのものを灯として、法を依りどころとして歩んでいきなさいという教えです。そして、他人を依りどころとすることなかれともとかれておられます。とにかく私たちは他人の言動に頼りがちになることがあるでしょう。しかし、その人の言っていることが、必ずしも正しいとは限りません。だから自分の心に従い、正しい教えを心の依りどころとして精進しなさいということです。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、自己を見つめる、自灯明、法灯明、p40

関連場所、商品

人生の心構え 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 目標を持ってみずからの意思を貫くのもいいことです。しかし目標ゆえに間違った方向に進むこともあるかもしれません。目標にとらわれ、強い信念を貫きすぎたために、人と争い、空しさを感じることもあるでしょう。まわりとのほどよい距離感、ほどよい生きかたを心得て、縁があった人と常に笑いながら、楽しみながら、ぼちぼち歩いていくことが、人生の心構えではなかろうかと思います。感情的にならず、一呼吸おいて、まわりの幸せを考えながら、縁をうかがい機をうかがい、目標に少しずつ近づいていく。そういう寛容と細やかさを兼ね備えた、落ち着いた人生を送っていただきたいと思うのです。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、人生って何だろう、四無行、p69,70

関連場所、商品

親が子に託せる財産 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 親が子に与えられる最も大切な財産は、親の生きる姿ではないでしょうか。親が生きるその一挙手一投足が、子どもの心のなかで、大切な財産として残っていくのではないでしょうか。
 私のばあちゃんも戦中戦後の貧乏のなかで、縫いものをして子どもを養ってまいりました。いつも笑顔で淡々と生きて、その生きる姿を私の心に託してくれました。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、人生って何だろう、ばあちゃんからのバトン、p40

関連場所、商品

私の日常の生活 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 「阿闍梨さま、今日の護摩もよかったです。ありがとうございました」
 護摩が終わったとき、そんなふうに声をかけていただくことがあります。私がただ、小僧のとき先輩から、「今日より明日、明日より明後日と、朝夕のお勤めが向上するように頑張りなさい」というアドバイスを受けて、二十五年間、素直に積み重ねてきた結果、多くの人に喜んでいただけるのです。しかし特別にかわったことや変わった生活をしているわけではない。
 一週間に朝夕のお勤めが十四回、しっかり努めて功徳を積ませていただいて、日曜日の午後一時には、とにかく何も考えず、ただ精いっぱい護摩を焚かせていただく。そのくりかえしが私の日常の生活です。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、人生って何だろう、今日より明日をもっと楽しく、p23

関連場所、商品

理論より体験 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 私がまだよちよち歩きの子どもの頃、ストープを触ろうとしている私に、
 「これはね、熱くて危ないんだよ」
 と母は言いました。そして私の手を持って、ストーブの橋のほうのあまり熱くないところに、ほんの一瞬、
 「ほら、どう?」
 と軽く触らせ、それで私が触ると、
 「熱い!」
 と言ってあわてて手を引っこめた。私はやがて、これは熱いものだと自分で理解したのか、二度とストーブに近づかなくなったというのです。
 修行も同じで、実践的な認識を通して会得するのが一番の近道です。いくら書物を読み、頭で考えても、理論ではわかるが実感も実行もできず、つまづいてしまいがちです。実際に熱いものに触って熱いと思い、氷水に手を入れて冷たいとわかるように、自分で体験しなければならないのです。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、人生って何だろう、今日より明日をもっと楽しく、p28

関連場所、商品

人と合わせる 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 私たちは、朝、勤行をいたします。十人いれば十人いっせいに同じお経を唱えます。しかし、それぞれの息つぎのタイミングも違えば、声の大きさも違います。てんでばらばらに唱えていてはよい響きになりません。
 そこで一番上座の先輩の声を聞き、その声の音程や拍子に合わせていくのです。はじめも終わりもピタリと合わなければなりません。私が小僧の頃、先輩が唱え終わって0.1秒でも自分の声が残っていると、「先輩にきづかいがない」とか「我が強い」というので、非常に厳しい指導をされたものでした。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、人生って何だろう、今日より明日をもっと楽しく、p25,26

関連場所、商品

お師匠さん 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 仏道修行には必ずお師匠さんという存在がいなければなりません。でも、なぜお師匠さんが必要なのか、あらためて考えたことはありますか? 師匠でなくて親でもいいです。なぜ親が必要なのか。なぜ人生の先輩が必要なのでしょうか。
 それは、どんなことでも、頭では簡単に理解できることでも、実戦となると、なかなかできなことがあるからです。人生において大切な心がまえなどというものは、長い期間、ともに生活をして薫陶を受けなければ、それを会得することはできないからであります。
 私が修行をはじめたのは十九歳のときですが、
 「人生っていったい何だろう」
 と疑問を感じたら、本を読めば、そこに答えになりそうな言葉は書いてありました。しかし、実践が伴いません。答えを自分のものにするには、それ相応の実践が必要です。そして、自分の姿は自分では見えません。自分ではまっすずのつもりでも、お師匠さんという人生の先輩から見れば、あちこち曲がって折れたりしています。だから、おかしいところはおかしい、曲がったことは曲がっている、と指摘して、言いにくいことを言ってくれる師匠や親が必要なのです。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、人生って何だろう、素直の効用、p16,p17

関連場所、商品

「山の行」と「里の行」 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 平成三年にはじまった千日回峰行も平成の十一年に終わり、平成十二年には四無行を行じて、そののち仙台に帰ってくることになりました。
 みなさんは、学校を卒業し、成人し、社会人として、これまでずっと社会の荒波に揉まれていらっしゃる。しかし私は学校生活からそのまま、塀に囲まれた規則正しいお寺の生活になり、しかも私はたったひとり大自然の中を毎日歩いていた。いってみれば世間知らずの人間です。それが仙台の秋保の地に帰ってきた。
 修行で体得したことはたくさんあります。自分の心を見つめ、自分の弱さ・欠点をよく反省して、こういう場面では心がこう動くから、こうすればよいなど、多くのことを知りました。また、お経の本に書いていることも、ひととおり頭に入っている。しかし、頭に入っているだけでは物知りであるにすぎず、実践しなければどうにもなりません。
 「山の行」と「里の行」があるとすれば、「里の行」とは、「山の行」で得た知識を里の実生活のなかにいかにいかしていくかでありましょう。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、人生ってなんだろう、行の心、p10,11

関連場所、商品

「謙虚、素直」 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 修行をはじめたばかりの頃は、山のあるきかたなどまったくわかりませんでした。ただがむしゃからに、歯を食いしばって、右の足と左の足を前に出していました。
 しかし山の修行では、ただただ「どんなものにも負けないぞ」といった強い心ばかりで歩いていると、その強さがかえって足腰に負担をかけてしまいます。足を大地にガンガンと叩きつけ、踏みつければ踏みつけるほど、自分の足腰を痛めてしまい、だんだんと山は優しく歩かなければならないと気がつきはじめるのです。やがて私は、胸の内で「謙虚、素直」「謙虚、素直」とつぶやきながら、右足と左足が自然に前に出ていくような歩きかたになっていました。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、人生って何だろう、素直の効用、p14

関連場所、商品

2015年1月28日水曜日

まず、自分が変わる 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 自分がいま与えられている状況のなかで、善きこともそうでないことも、全てを自分自身の心の成長の糧として、とらわれず、淡々と、ただあるがままに、人としての道、それに従って生きていくところに、本当の自己が実現します。自分自身の人生を光ある道に変えていくか否かは、今日、このときの生き方にかかっているのです。一日一回でもいいのです。自分が「嫌だな」と思う人に、笑顔を向けたり優しい言葉をかけてみてください。はじめはむずかしくとも、くりかえし試していると、それがきっかけで打ち解けあうこともできるでしょう。(中略) どんなことがあっても、人を恨まず、嫌わず、広い心で許す。この寛恕の心がまわりまわって穏やかな心となって人生に返ってきます。相手を変えるのではなく、まず、自分が変わったときに、何かが変わりはじめます。善悪や是非では決着はつきません。心の扉を開いて、明るく楽しくほほえんで、人生を楽しんだ方がいいと思います。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、まえがき、iii,iv

関連場所、商品

真理の道 忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤

 この世の中にはいろんな心の状態の人がいて、渾然一体となって社会がなりたっているので、たとえば、自分が正しいと思う態度で臨んでも、相手がそうでない場合もあります。そうすると、つい相手の態度にとらわれて、「なぜ」「どうして」と疑念が起こり、どんどん深みにはまって、本来あるべき真理の道を生きていくことができなくなってしまいます。(中略)たとえ嫌なことがあっても、忘れよう、捨てよう、許していこうという、その心構えが、私たちの人生を喜びの世界に転換してくれる可能性もあるわけです。とてもめんどうくさく、遠まわりに見えるかもしれませんが、実は、一番の近道なのかもしれません。

・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、まえがき、ii,iii

関連場所、商品

2015年1月25日日曜日

キャンプ料理は、どうして美味しく感じるのか。 スノーピークHP/池谷裕二

 自然の中で食べる食事は、いつもより美味しいですよね。 なぜ脳はそう感じるのでしょう? 実は快感の報酬系は、報酬の絶対値ではなく、今までとの差分に反応します。 例えば月収10万円の人が100万円に昇給したら、毎月100万円もらい続けている人より嬉しく感じるものです。 うちの犬はお風呂が嫌いですが、お風呂からあがった瞬間めちゃくちゃ喜びます。 単にふだん通りに戻っただけなのに、大きな差分が報酬になるからです。 どんな動物でも、巣から外に出ている時にもらう報酬のほうが、安全な場所でもらう報酬より快感が大きくなります。 外は基本的には危険な世界です。 だからこそ外で食べると、とても美味しく感じるのです。

・出典
脳はキャンプをしたがってる?池谷裕二さんインタビュー
https://store.snowpeak.co.jp/sp/camp_life/index.html

・関連場所、商品
池谷裕二

スノーピーク

そうすると、ルールや縛りがあるからこそ、その中でどう報酬を得ようとするかが幸せにつながるのでしょうか?

自分で動き出さないと、世界は見えてこない? スノーピークHP/池谷裕二

 脳はどのように、目で見た世界を認識するのでしょうか? 2匹の仔ネコを使った実験があります。 特殊な器具で1匹の仔ネコを自分の意志で動き回れるようにして、そのネコの動きに合わせて動くカゴにもう1匹を入れて自分の意思では動けない状態にすると、 成長した時に自分の意思で動いたネコだけ、世界がちゃんと見えているのです。 自分の足で動き回らないと、脳は目で見る世界を認識しません。
 狭い家の中にくらべたら、キャンプで動き回れる範囲は遥かに広い。 どこに行くか、どう行動するかを自分で自由に決められる。 子どもにとって脳の世界観を構築するチャンスが、ものすごい多いのです。

・出典
脳はキャンプをしたがってる?池谷裕二さんインタビュー
https://store.snowpeak.co.jp/sp/camp_life/index.html

・関連場所、商品
池谷裕二

スノーピーク

人間、根っこが生えているわけではないので、本当はどこにでもいける存在だ。でも、会社、家族、友達、ローン・・・・・・などなど、いろいろなものに縛られて動けなくなってしまうのか。なんだか難しい問題だ。

脳に可塑性があるから、人は冒険できる スノーピークHP/池谷裕二

 人間の脳には可塑性があります。 可塑性とは、粘土を指で押しても戻らないように、変化の痕跡が後まで残ること。 可塑性は新たな環境にであうほど高まります。 脳が柔らかくなるという表現をしてもいいでしょう。
 ヒヨコは高い所が怖いと生まれながらに知っています。 人間の赤ちゃんは高い所を恐がりません。 落ちる経験を通じて怖さを学びます。 生まれながら高所の怖さをしっているヒヨコの脳の方が優秀とも言えますが、でもヒヨコには冒険ができません。 ニワトリになっても限られた範囲の中で一生が終わります。 人は落ちたら怖いとわかっていても、この崖を降りてみようと冒険できる。脳の可塑性のおかげで恐怖を学習し、それを乗り越えて先へ行ける。 人の脳は経験から学ぶために白紙に近い状態で生まれると考えると、どんどん新しい世界を知ってたくさん経験をした方がいいわけです。 学校や塾の勉強も大切だけれど、時々キャンプをして本来の脳に戻り、新しい経験をするのも悪くないとぼくは思います。

・出典
脳はキャンプをしたがってる?池谷裕二さんインタビュー
https://store.snowpeak.co.jp/sp/camp_life/index.html

・関連場所、商品
池谷裕二

スノーピーク

・関連記事
子どもを箱の中にしまわないで いなほ保育園の十二ヶ月/北原和子 聞き書き 塩野米松

「新しい世界を知ってたくさん経験をする」日常生活をしていると、生活のリズムができてきて、なかなかそこから違うことをするという気力が奪われていきます。一番思うのが面倒くさい。しかし、その面倒くさいの中にこそ面白いというものがあるのかもしれません。←ほとんど所ジョージさんの受け売りです。

2015年1月24日土曜日

又八の自戒 宮本武蔵 (二)/吉川英治

 旅籠は、不経済と考えて、純系堀に近い馬具師の家に離れを借り、食事は外でし、見たいものを見、家へは帰ったり帰らなかったり、好みどおりな生活をしている間に、知己を得、手づるを見つけ、扶持の口にありつこうと心がけていた。
 この程度に、生活を持していることは、彼にとっては、かなり自戒を保って、生まれ変ったほど、身を修めているつもりなのである。
(中略)
(世の中というやつは、まるで石垣だ、きっちりと、使われる石は組んであって、後から入る隙はねえものだ)
(中略)
(なあに、蔓のみつからねえうちが、そう見えるんだ、うまく、割り込むまでが、難しいが、何かへ取ッついてしまえば)
 と思い直して、間借りしている馬具師のおやじへも、就職をたのんでおいた。
(中略)
 ありそうな口吻で、そこの馬具師も安うけあいしたが、就職はなかなかかかってこない。-そのうちに冬も十二月、ふところの金も半分になっていた。

・出典
宮本武蔵 (二)/吉川英治、幻術、p248,249

関連場所、商品

自分から節約と見えても、他人からはかなりの贅沢だったりするのだろう。何を自分の中で価値基準に置くかは大切だな。

どっちへ 宮本武蔵 (二)/吉川英治

 さてこれからどっちへゆくか? どっちへ行こうと体一つである。何かいい運だの悪い運だのがいろいろな方向で自分を待っているらしく思う。今の足の向き方ひとつで生涯に大きな違いが生じるのだ。必然、こうなるものだと決定された人生があろうとは考えられない。偶然にまかせて歩くよりほか仕方がない。

・出典
宮本武蔵 (二)/吉川英治、佐々木小次郎、p225

関連場所、商品

安全が保障された未来なんて一つもない。自分の体をよいと思った方向に運ぶより他ないみたい。と、思った。

奪う、差し出す 3月のライオン 4/羽海野チカ

ぼくは
いや ぼくたちは
プロだ

どちらかだけが
一方的に甘い汁をすする
関係であっては
ならないのだ

-あの時

島田さんは
僕から「奪えるモノがある」と
思ったから僕を誘い

僕もまた

わずかかもしれないが
「差し出せるモノ」があると
思ったから

研究会に
入れて欲しいと
口にした

・出典
3月のライオン 4/羽海野チカ、奔流 Chapter 37

関連場所、商品

結局、どんな世界でも物々交換なんですね。相手に渡せるものを私も何か作りたいです。

2015年1月23日金曜日

一寸先と三分先 3月のライオン(10)/羽海野チカ

人生は 計り知れない

「一寸先は闇」って言葉だけがメジャーだけど

その逆もまた



充分 起こりうるのだ

「3分先は光」みたいに

でも少しこわい

あの灯りが もしまた
遠ざかって行く日が来たら

-その時

ぼくはどうするのだろう

(中略)

答えが出ないものにぶつかるとぼくはいつも盤に向かってしまう

以前はそれを「逃げ」なのかもと悩んだけれど

-今は

あの時の

背中にあたった手のひらを思い出す

僕は僕に出来る事を

いっこいっこ

やるしか無いのだ

・出典
3月のライオン(10)/羽海野チカ、雨の降る街 Chapter 99

関連場所、商品

目の前が「光」か「闇」かなんて考えてもしょうがないですね。津波や地震によって一瞬の内に命を奪い取られてしまった人たちがいるなかで、私は毎日を楽しく精一杯生きることでしか何かを返せないんじゃないかと思います。だぶん・・・。

頼り、頼られる 3月のライオン(3)/羽海野チカ

一人ではどーにもならん事でもさ
誰かと一緒にがんばればクリアできる問題ってけっこうあるんだ

そうやって力をかりたら次は相手が困っている時
お前が力をかしてやればいい
世界ってそうやってまわってるんだ

あのな
大事だことだぞ?

いいか?

一人じゃどうにもならなくなったら誰かに頼れ

-でないと実は誰も
お前にも頼れないんだ

・出典
3月のライオン(3)/羽海野チカ、夜を駆ける Chapter 32

関連場所、商品

ひとりぼっち 3月のライオン(3)/羽海野チカ

テレビから除夜の鐘が聞こえてきた
-そんな風に情けなく今年が空に消えてゆく・・・・・

自分のひとりぼっちにきをとられ
誰かのひとりぼっちにきづけないでいた

まぬけな僕に
除夜の鐘はしんしんとふりつもり

大きな河みたいにゆっくりと
新しい年がやってこようとしていた

・出典
3月のライオン(3)/羽海野チカ、ゆく年 Chapter 22

関連場所、商品

ひとりでさみしかったときって、「どうして誰も自分のことを見てくれないんだ」って思ってましたけど、考えてみると他人のことも見ていないんですよね。自分のことが見て欲しければ、他人のことを見ないとダメなんですね。

挑戦と失敗 3月のライオン(3)/羽海野チカ

そんな・・・

カッコ悪いことかなあ・・・
気にすることぜんぜんないのに

「がんばる」って口に出して本当に「がんばった」んだと思う
れいちゃんなら・・・

それでダメだったとしても誰も笑わないのに・・・

その通り
恥なんてかいてナンボだ
「失敗した」って事は「挑戦した」ってことだからな

なんにもやんねーで他人の事笑ってる人生よりずっとマトモだ
・・・ただボーズ まだ若いしクソまじめだからなぁ・・・

(中略)

なぁに そのうちおとなになりゃいやでも気付くさ
どんなヤツでも一線でやってる人間で
恥をかいた事ないヤツなんていねぇってコトにな

・出典
3月のライオン(3)/羽海野チカ、月光 Chapter 30

関連場所、商品

中島みゆきさんも「ファイト!闘う君の唄を 闘わないやつらが笑うだろう」って言ってますね。「闘う」「挑戦する」ことは恥ずかしいことじゃないですね。恥ずかしいのは変えたらいいのに、変わろうとできない自分の心かもしれませんね。この言葉、勇気を貰えます。ありがとうございます。

人はなぜ山に登るのか 登山の哲学/竹内洋岳

 私の長男は一歳になる前から一人で歩き始めました。ヨロヨロ歩くのが危なっかしくて、妻が手で支えると、その手を振り払って歩く。けれども、結局は転ぶ。妻が抱き起こそうとすると、その手を振り払って、自力で立ち上がって歩こうとする。
 一方、一年ちょっと後に生まれた次男は、まったく違うのです。一歳になっても一人では歩けない。ようやく歩けるようになったと思ったら、ずっと妻の手を握って放さない。転んだら自分で立とうとしはしない。同じ材料で作られたであろう二人の息子なのに、まるっきり行動のパターンは違います。
 二人ともまだ一歳前後のときの話ですから、生活環境や親の育て方でこれだけの違いが表れたとは考えられません。年が離れているわけでもない。だとしたら、持って生まれた”性分”としか言いようがない。
 そう思うと、私自身が高いところに登りたくなったり、知らない場所に行きたくなったりするのも、もともとそういう性分を持っていたと考えるようが自然な気がします。
(中略)
 なぜ山に登るのか? 私には「そこに山があるからだ」と言ったマリーのように格好いい答えは思い浮かばない。私が山に登りたくなるのは、「登りたいから仕方がない」ことなのです。

・出典
登山の哲学/竹内洋岳、第六章 危険を回避する想像力、p181,182

関連場所、商品

やりたいからやる。これにつきますね。理由なんてないと・・・。

住さんの「上手ぶるな」の教え 藝、これ一生/桂米朝、市川寿憲

 お父さん(先代の住大夫師匠)からの忘れられない言葉-、それは東京の三越劇場で「寺子屋」を語って意気揚々と引きあげてきた時、いきなりどつかれて、「上手打ってやるな!」。後に夢にまで見たそうです。けど、住さんは今、若手に同じことを言うてはるらしい。「下手は下手なりに素直にやれ」と。確かに若手が上手に見せようとすると、芸が小そうなりますな。
 私は初めから、カネにはならんのを承知でこの世界に入りましたが、住さんも「おカネより芸。これをやってなんぼと考えているようでは、この商売はでけしまへん」とおっしゃいます。「私を仕込んでくれた先輩方もえらい貧乏したはりました」。やはり根本になるのは「芸が好き」という気持ちなんですな。

・出典

弟子もいろんなのがおるわ、p81

・関連場所
桂米朝事務所
http://www.beicho.co.jp

・関連図書
  

・映像作品
  

あんな風に乗りたいねえ バ・イ・ク/柳家小三治

 人の運転ぶりを見ていると、うまい人っていうのはうまそうに見えないね。うわァすごいな、っていう走り方をしないのね。狭いところをスパッと入ってね、下手すりゃ紙一重で危ない運転を、本当にうまい人はしませんね。スムースに流れるように、いつも安全なところを、それで速いっていう走り方ですね。これは何にでも言えることですよ。
(中略)
 おとなしいフォームでもって、それでいて速いんですよね。
(中略)
 やっぱりうまい人っていうのは、おとなしく乗るね。そのかわり速いですよね。むだな動きしないから、スリス満点な乗り方に見えません。
 下手なやつが乗りゃあ、危なくてとてもついて行けないようなスピードに見えたりするわけだけど、うまい人は、磨かれた技術というものがあるからかね、なんでもなく乗っているわけです。いまでも憧れています。

・出典
バ・イ・ク/柳家小三治、6 小三治の素人バイク考、p261.262

自己紹介、関連場所、商品


「やりなさい」では、やらない 登山の哲学/竹内洋岳

 人から「やりなさい」と勧められたことに、おもしろいと感じられるものはほとんどない、と私自身が思っているからです。
 自分の子どもの頃を振り返ってみると、「これをやれ」と言われたことは、ほとんどやったためしがなかった。「体にいいから」とか、「将来きっと役に立つから」とか、いろいろな理由を付けて勧められますが、全然興味が湧かない。むしろ、「危ないからやっちゃダメ」と、大人たちから叱られるようなことを、こっそり隠れてやるほうが楽しかった。
(中略)
 趣味でも、勉強でも、仕事でも、自分から興味を持たなければ、おもしろさの本質に触れることはできない。私はそう思います。登山のおもしろさを知るきっかけも、人に言われたり、人から与えてもらったりしたのでは、自ら探し当てた喜びはえられない。まして、命令して山に登らせるなど、とんでもない話。

・出典
登山の哲学/竹内洋岳、第六章 危険を回避する想像力、p178,179

関連場所、商品

「危ないからやっちゃダメ」と言われると、子どもの頃は逆に興味をそそられましたね。なんなんでしょうね、あの感じ。勿論、法に触れたり、相手を故意に傷つけてしまうことはいけませんが、道徳に反しない自分のやりたいことはやってみたいですよね。大人になるとこのやってみたいということに蓋をしてしまうんでしょうか。

いなほ保育園の「放ったらかし」 ほぼ日刊イトイ新聞/糸井重里、鈴木敏夫

「いなほ保育園」というところがあるんですけど、この園長さんが非常におもしろいということで、ぼくは会いにいったことがあるんです。

この保育園の最大の特徴は「ぜんぶ、放ったらかしにすること」なんです。

それで何をやらせようとしているかというと……「子どもがバランスよく立って歩くこと」なんだそうです。

3歳児や4歳児の子どもは、走ったり歩いたりするとき、前のめりか後ろのめりになっていますよね。それをバランスよく立てるようになるためには、外に出て、いろんなことをしないといけないんです。ところが今の子どもたちの特徴は、少子化で「いろんなことをする」という機会をうばわれているんです。

「いなほ保育園」は、どんなにあぶない状況になっても、誰も何も先まわりして危険に近づかないようにはしない。ケガをしようが何をしようが放っておくんです。

だけど、そこを通過した子たちは、全員が違う立ちかたになるんです。それぞれなりのバランス感覚を持つんですよ。実際に保育園に見にいくと、本来子どもというのは、こんなに元気でエネルギーを持っているものなんだ、ということが思い知らされますね。

でかい敷地で自由闊達にやらせているんですけど、冬に焚き火をして魚を焼くと、3歳や4歳の子どもたちが、頭からガブッと食べるんですよね。すごい。

現代では珍しいぐらい、みんなが青っ洟を平気でたらしていました。あの保育園に立っていると、タイムスリップしたみたいな気分になるんです。子どもたちも元気で、みんな、ものすごく敏捷だし……昔の子は、当時は子どもが多かったせいか、放ったらかしにされていただけなんだけど、みんながそういう経験をふつうに通過してるんです。

乱暴者の問題児も、親ごと近所に引っ越してその保育園に入れると、もっと元気になるんですよ。いろんな意味で注目されている保育園なんですけど。

「でも、ここを終わって小学校へ行ったら、みんな、学習してダメになっちゃうんじゃないですか?」園長さんにそう聞いたら、そんなことはありえないんだそうです。子どもの基礎ができるのが3歳から4歳なんだから、と……。

ほんとにおもしろい場所でした。ああいうところに行くと、人間の動きの基本がわかるから、いろんなアニメーターに「あそこに行っておいたほうがいいと思う」と言うんですけどね。

・出典
ジブリの仕事のやりかた。宮崎駿・高畑勲・大塚康生の好奇心。
http://www.1101.com/ghibli/2004-07-28.html

・関連場所
ほぼ日刊イトイ新聞
http://www.1101.com

スタジオジブリ-STUDIO GHIBLI
http://www.ghibli.jp

・関連書籍
いなほ保育園、北原和子さん


糸井重里さん
  

鈴木敏夫さん

2015年1月22日木曜日

”フワッと乗る”がバイクの極意 バ・イ・ク/柳家小三治

 オートバイというのは、買って一ヶ月や二ヶ月は、自分のポジションはわからないものだよね。どっか一カ所でホールドしていれば、あと全部の力を抜いていいんだけど、そういう乗り方がなかなかわからない。中には十年たってもできないのがいる(できないんじゃなくて、やろうとしない)。
 力を抜く。初めて乗った者にとっちゃあ、そうはいかないや。初めてタンデムで後ろに乗ったときもそう。スキーへ初めて乗ったときもそうですよ。
 スキーなんてものこそ、本当に、いかにして力を抜くかということだね。
(中略)
 コツをつかんじまえばそうむずかしくはないんだが、それまではくり返しくり返し何百遍でも練習すること。
 楽しいよォ。
(中略)
 これぁ、人生の奥義といってしまいましょうかね。

・出典
バ・イ・ク/柳家小三治、6 小三治の素人バイク考、p255~257

自己紹介、関連場所、商品

・関連記事
若男女老 投稿四字列語/所ジョージ

力の入れ方を教えてくれる人はたくさんいましたが、力の抜き方を説いた人は小三治さんがはじめてですね。

常に最先端を追求せよ 登山の哲学/竹内洋岳

 ヒマラヤ登山のサミットプッシュでは、最後は根性がものをいうような局面もしばしばあります。でも、ベースになるのはどう登るのかというタクティクスであり、それを実行するだけの技術だと考えています。
 その技術が、かつてはそれほど評価されていなかった。理由は道具にあると思います。道具が良くなることで、技術も進歩する。まだ道具が良くなかった時代に、いまよりも体力や精神力が重視されたのは、仕方がないことだとも私は感じます。
 道具の進化の目的は、安全性の確保です。しかし、山登りにおいての「安全性」という言葉は、しばしば誤解されます。新しい道具は楽に登るためにつくられるわけではない。より難しい挑戦をするためにつくられるのです。

・出典
登山の哲学/竹内洋岳、第四章 新しい自分を生きる、p140

関連場所、商品


生死を分けるのは「運」なのか? 登山の哲学/竹内洋岳

 自分は運が良くて助かったのか? 仮にそうならば、二人の仲間は運が悪くて命を落としたことになる。そんな理屈は絶対に受け入れられない。
 世の中に運がないとは思いません。宝くじに当たったりするのは、運次第でしょう。運でしか説明できないこともあるし、運のせいにしておいたほうが都合のいいこともある。でも、人の生き死にまでも、運で片付けてしまうことはできない。自分の命が助かったことを、私自身が「運が良かった」と認めてしまうことは、命を落としたアーネとアーンツの家族に対して、「運が悪かったですね」と言うのと同じことです。

・出典
登山の哲学/竹内洋岳、第四章 新しい自分を生きる、p126,127

関連場所、商品

「運」はコントロールできるものではないので、力をつけて「運」にできるだけながされないようにする。この流されなくなる力って大事だと思いました。

登山に生きている感覚 登山の哲学/竹内洋岳

 無理をして、ゆっくりでもいいから登り続けていれば、頂点に立つことはできたかもしれません。しかし、頂上は山登りのゴールではない。無事に下山して、はじめて登山は完結します。強行すれば、日が落ちる前にラストキャンプまで戻ることは不可能でした。もしかすると、戻ってくる体力までも尽きていたかもしれない。そこで引き返したことは、適切な判断であり、最善の選択だったのです。
(中略)
 それまで趣味だった登山が、もう趣味ではなくなっていた。帰国したときには、私は”プロ登山家”という生き方をはっきりと意識していました。

・出典
登山の哲学/竹内洋岳、第三章 決意と覚悟、p111,112

関連場所、商品

プロとアマの違い。アマの私にはそんなかっこいいことは論ずる資格はないです。

引くときは迷いなく 登山の哲学/竹内洋岳

 行くという選択も、行かずに下りるという選択も、同じ自己判断です。自分自身の意志と責任とで決めたことなのですから、決めた後に迷いや悔いは一切ない。「今回はダメだったから、また来よう」と気持ちを切り替えて下山できるのも、組織に属さない個人の登山だからという気がします。

・出典
登山の哲学/竹内洋岳、第三章 決意と覚悟、p103

関連場所、商品

負け戦はしない。生き残ることが第一前提ですね。

強いものが道を作る 登山の哲学/竹内洋岳

 結果的に、六人のメンバーのうち四人は登頂できなかったのです。
 私はエベレストの頂上に立ちました。こう言うと、仲間を置き去りにして勝手に先に行ったと思われるかもしれませんが、弱い者に合わせていたら山は登れない。
 学校の遠足やハイキングなのでは、一番弱い人を先頭にするケースもあります。しかし、弱い人のペースに合わせれば、チーム全体が弱くなり、結局は登頂という目的も果たせなくなる可能性が高くなる。
 体力の消耗度は、山での行動時間の長さに比例します。のんびり登っていたら、明らかに疲れてしまう。ルートを延ばしていくためには、強い人が先に立って進まなければなりません。
 一番強い人間が道をつくり、その後を弱い人間が通れるようにする。それが基本的な考え方です。そもそも山の中にいること自体がリスクなのです。一時間かけて登るところを五◯で登ることができれば、一◯分のリスクを減らすことができる。山の中でリスクを減らす方法は、それしかないのです。

・出典
登山の哲学/竹内洋岳、第二章 組織で登る八◯◯◯メートル、p77,78

関連場所、商品

世の中の縮図のようですね。最近は引っ張っていこうという人が少なくなってきたんじゃないですかね。という、私も引っ張ってもらっている人間です。

挑戦を続ける喜び 登山の哲学/竹内洋岳

 登山は想像のスポーツです。頂上まで行って、自分の足で下りてくる。ただのそのために、登山はひたすら想像をめぐらせます。無事に登頂する想像も大事ですが、上手く行かないことの想像も同じように大事です。死んでしまうという想像ができなければ、それを回避する手段も想像できません。私たち登山家は、どれだけ多くを想像できるかを競っているのです。
 もちろん失敗もするし、悩みもするし、ときには引き返すこともある。しかし、目標が向こうから黙って近づいてくることはありません。だから私は立ち止まることなく、想像に想像を重ねながら、足を前に踏み出し続けてきました。その歩みが、幸いにも十四座完登につながったのです。

・出典
登山の哲学/竹内洋岳、プロローグ-大雪崩の記憶、p21.p22

関連場所、商品

「登山=想像」なんとも常人には結び難い考え方。ということは、「人生=想像!?」

写経の意味 心/高田好胤

 写経本来の趣旨は仏様の教えをひろめるために行われるものですが、いま私たちのする写経には心を洗い、清浄心を養う浄業であるという意味がこめられています。
 どんなに砂漠のようになってしまった人の心にも、その奥底には何物にもけがされない美しい仏心が内在しています。(中略)それを、私は「心のオアシス」と呼びたいのです。
 誰の心にもある美しい泉、掘りあてればつきることのない清水、仏心の湧いてくるオアシス、その泉を一人でも多くの人に自らの手で掘り当ててもらいたい。自分の心のオアシズを掘りあてる幸せを、一人も多くの人に味わっていただきたい。

・出典
心/高田好胤、付・写経運動(「般若心経」全文)、p386,387

関連場所、商品

もし「心のオアシス」というものが存在するならば、人間は大人になるに従ってその源泉の湧き出るところにゴミを溜めていくようなものなのでしょう。このゴミを取り除く作業が「写経」なんでしょうね。

2015年1月20日火曜日

心を養う食事 心/高田好胤

 同じ食事をいただくにしても、喜びと感謝の心でいただいたときには、それが血となり肉となり、またわれわれの心も養ってくれます。同じ水を飲んでも、蛇はそれを毒にし、牛はそれを乳に変えます。食べるものに変わりがなくても、それを受けとる心によって、値打ちが変わってくるのであります。
 たとえば、暇のことについて考えてみましょう。暇を生かしたところに文化が生まれます。暇のないところに文化は生まれない。その同じ暇でも悪用すれば堕落とか俗化という現象もまた生まれてくるのです。暇そのものが堕落をもたらすのではない。暇を有効に生かすことができず、暇をもてあました結果、堕落が始まり、俗化の現象があらわれるのです。身につく食事をするのも、身につかぬ食事をするのも、食事の質や量によるのではなく、食べる物の心のありかたによるのであります。
 食事をするとき、薬を飲むような気持ですれば、肉体的な苦しみから救われるのだということが、「正しく良薬を事として、形苦を済わんことを取る」であります。
 薬というものは、時間とか分量とかをきちんとしなくてはなりません。この薬はよく効くからといって飲みすぎれば、睡眠薬が永眠薬となりかねません。

・出典
心/高田好胤、第 Ⅲ 章 親の心と子の心 「しつけ」について、p210,211

関連場所、商品

「同じ水を飲んでも、蛇はそれを毒にし、牛はそれを乳に変える」なんという、目から鱗が落ちるような話。それを暇という例を挙げて説明されていますが、正にその通りと言わざる終えません。食うのにはほとんど困らない日本社会。お金と時間は余っているはずなのになぜか豊かさが感じられない。なんででしょうね。

子供に無慈悲な時代 心/高田好胤

 青少年の非行化ということが問題になっておりますが、私にいわせれば非行化しているのは子供の方ではなく、おとなの方が非行化しているのです。子供は常におとなの心の鏡です。むしろ、私は今日の世の中はまことに子供に対して無慈悲だと思います。
(中略)
 青少年の非行化というのは、つまりおとなの非行を映している姿です。青少年の非行対策委員会はまず自分たちおとなの非行の問題に取り組むというような気持で出発しないことには、現在の青少年問題は永久に解決しないと思います。

・出典
心/高田好胤、第 Ⅲ 章 親の心と子の心、「しつけ」について、p188~192

関連場所、商品

・関連記事
うしろ姿で教える 心/高田好胤

上がよければ、必ずよくなる いなほ保育園の十二ヶ月/北原和子 聞き書き 塩野米松

おとな(以下:親)の背中を見て子どもは育つ。それはその通りだ。私も親の背中を見て育ってきた。だから、今の子どもは自分の親を、親はその親を、その親はそのまた親を・・・。と、続いていくと、非行化している親の子どもは非行化しやすいし、非行化していない親の子どもは非行化しにくい。ただ、そういうことなのじゃないか。別に世の中の大部分はなんら変わりなく繰り返されていて、その「繰り返し」から抜け出すための行動を起こすか、起こさないかが人生じゃないだろうか。エヴァって「繰り返し」みたいなのがテーマだったような気がする。それから抜け出すためにシンジ君は行動しているのだろうか。

「観る」と「見る」 心/高田好胤

「みる」という漢字には「見る」と「観る」があります。
「見る」というのは肉眼で形あるものを見る場合に使いますが、「観る」というのはいろなきものをみ、音なきものをきくという意味です。つまり、心の目で見えないものを見るということです。
 母親は学校から帰ってきた子供の顔をちらと見るだけで、「どこか悪いんじゃないの」と他人にはわからないことを観ます。そういう医者にもわからないところを察するというのが本当の親の愛です。「観る」というのは観音の「観」ですが、子供にとっては母はまさに観音様なのです。


・出典
心/高田好胤、第 Ⅲ 章 親の心と子の心 現代の母親のあり方、p175,176

関連場所、商品

・関連記事
心でさがす 星の王子さま/サン=テグジュペリ作 内藤 濯訳

大切なものは大抵、目に見えないようですね。

うしろ姿で教える 心/高田好胤

 親の意見にけむたがり、反抗的態度をとりがちですが、ただし子供は親のやることを真似て学んでゆくものです。
「お早うございます」「行ってきます」「ただいま」「おやすみなさい」-というような日常的挨拶さえうちの子供はできない、と嘆く母親は多いようですが、それなら私は「あなたたちは旦那さんにそういう挨拶していますか?」と聞きたい。おそらく、やってない人が多い。自分ができないことを、どうして子供だけに要求するのか。理屈でそういうことを子供に要求するのではなく、旦那さんに自分がちゃんと挨拶していれば、子供は自然と真似るものです。
(中略)
 だから、子供がいうことを聞かなかったら、ヒステリーを起こす前に、ああ、これは私の子供に間違いない、私のやってきた歴史をそのまま繰り返している、と思うべきなのです。逆説的にいえば、そういうときでも「これも自分の子なればこそ」と心の中で合掌するくらいの気持があれば、やがて子供が母親を拝む日が必ずやってくるものです。


・出典
心/高田好胤、第 Ⅲ 章 親の心と子の心 現代の母親のあり方、p167~170

関連場所、商品

・関連記事
子供に無慈悲な時代 心/高田好胤

床座施 心/高田好胤

 読んで字の如く、席を与えてあげることです。電車に乗っていて、お年寄りが乗ってきたら、席を譲ってあげるというようなことです。
 ところが、電車の中で席を譲ってあげると、若いものは席を譲るのが当たり前だという顔をする人もいます。そうなれば、若い者だって、意地でも譲ってやるもんか、という気になります。やはり、席を譲られたら「あんたも会社に行って疲れてはるのに、申しわけないなあ」というぐらいの気持がほしいと思います。
 床座施ということは大事なことですが、そういう施しを受ける人の心も、また大事だということです。

・出典
心/高田好胤、第 Ⅱ 章 「般若心経」の心 布施の心、p132

関連場所、商品

確かに譲られる側のお年寄りに席を譲るのは当たり前だろうという顔をされると、譲りたくなくなる気持ちもこの文章を読んでよく分かる。また優先座先というものがあるが、電車の車両全体が優先座席と考え、困っている人がいれば誰もが譲るという感じになればいいなと思う。意地の張り合いだけは避けたいものだ。

愛護施 心/高田好胤

 釈迦は相手を見て法を説けといわれました。高遠な真理をとうとうと述べても、相手が黙りこくって理解されていない。聞く人の心にそれがわかるように、正しい心をやさしい言葉で話す。他人の心を知って、なごやかな、喜びを感じるような言葉で話をしてあげる。それが愛護施であります。

・出典
心/高田好胤、第 Ⅱ 章 「般若心経」の心 布施の心、p149,150

関連場所、商品

難しいことを分かりやすく話す人=すごい人
難しいことを難しいまま話す人=難しい人

無財の七施 心/高田好胤

 布施というのは慈悲心をもって他人に施すことですが、物質を与えるだけが布施ではありません。喜びの心、感謝の心というような目に見えないものを捧げるのも、立派な布施になります。つまり、布施は自分の終着の心を離れるということです。

・出典
心/高田好胤、第 Ⅱ 章 「般若心経」の心 布施の心、p132

関連場所、商品

スーパーのレジ打ちでアルバイトをしていましたが、その時に、気持ち良く「ありがとう」と言ってくれる人にどれだけ好感を覚えたかを思い出しました。

「忍耐」と「精進」 心/高田好胤

 つとめても なおつとめてもつとめても つとめたらぬはつとめなりけり-という歌があります。人間というものは自分のやっていることは過大に評価しますが、他人については過小評価しがちなものです。俺はこんなに仕事やっているのに部長は認めてくれない。自分と一緒に入社したあいつは仕事はろくにできないくせにゴマスリがうまいから係長になりやがった。本来の実力的にそう差がなかったとしても、そういう不満を持つことでさができることになり、結局損するのは本人ということになります。
(中略)
 車でもいまではアスファルトの道になっている。たとえば、私一人の力でその道をつくるとしたら、生涯の時間をかけても、十メートルはおろか一メートルの道もつくれるでしょうか。自分の力の限界を知り、他人の努力に感謝する心がさらに努力しようという気持を自分の中に育んでくれるのです。
 自分が懸命に努力しているつもりでも、世間から、社会からもらっているものに比べたら微々たるものです。つとめたらぬはつとめなりけり、ということです。


・出典
心/高田好胤、第 Ⅱ 章 「般若心経」の心 波羅蜜、p125,p126

関連場所、商品

自分一人の力は大したことがない。このことを知るのにどれ程時間がかかったか。衣食住のどれをとっても一人では賄えない。無人島に一人で暮らすことでしか、人の助けを得ずに生活することはできない。生きているということは見えないところでたくさんの人に関わっているということですね。

日本国中はわが庭 心/高田好胤

 昔、太閤秀吉が非常に可愛がっている鳥がいた。ところが、鳥番がその鳥に餌をやるとき、ちょっとした不注意で籠を開きすぎ、その隙間から鳥が逃げてしまいました。
 何しろ戦国の世を平定し、日本全国を統一したばかりの秀吉が可愛がっていた鳥です。それを逃してしまったのだから、どんなお仕置きを受けるかわかったものではない。命はないものを覚悟をきめて、鳥番は恐る恐る秀頼の前に伺候し、ことの次第を言上した。
 ところが、秀吉はかんらからからとうち笑ったというのです。
「お前、そんな細かいことを心配するな。日本国中六十余州はみなおれの庭なんだ。籠の中から飛び出した鳥はいまどこを飛んでいるかしらないが、いまごろおれの庭のどこかで嬉々として囀っていることであろう」
 この「日本国中がみんなおれの庭」というのが「三界はこれみなわが有なり」という言葉の意味です。これがつまり「空の心」ということにもなります。
 私たちはなかなかこういう境地には達せられません。大事な鳥なら、籠の中に飼っている状態しか”自分のもの”と意識できない。だから。それを他人が逃したら怒るということになる。怒られた方も「鳥の一羽や二羽、ケチケチしやがって」と以後、二人の仲は険悪になる。それだけのことで、友情がこわれてしまうということにもなりかねません。
 そのときの気持次第で生涯の友人を失うか、あるいは逆に生涯の友人を得るかということになります。


・出典
心/高田好胤、第 Ⅱ 章 「般若心経」の心 広く広く、もっと広く、p107~109

関連場所、商品

これぐらいの心持ちで世の中のことに関わっていけたらいいですね。でも、最近は権利関係が厳しくなってきてるので、「日本国中がみんなおれの庭」だと言って他人の畑の作物をとったら御縄になる可能性がグッとあがりますね。

2015年1月19日月曜日

「見下げる心」の世の中 心/高田好胤

 いまの世の中は「見上げる心」より「見下げる心」の方が何と多いことでしょうか。それが、どんなに今日の世を住みづらくしていることでしょう。
 会社に行けば社長は社員を見下している。俺はお前を雇ってやっている、女房子供が路頭に迷わないでいられるのも俺のおかげではないか、と。ところが、その社員が逆に社長を見下している。お前がそんなに威張っていられるのも、俺たちが働いてやっているおかげじゃないか、もっとゼニよこせ、それがいやなら電車をとめてやろうか、汽車をとめてやろうか、ということになる。両者のあいだには感謝の心も喜びのこころもまるでありません。
 家へ帰れば父親は母親を見下し、母親はまた父親を見下している。だから子供は父に見習って母を見下し、母親を見習って父を見下すということになります。そこに現在のいろいろな家庭問題の根源があると思います。
(中略)
 自分の価値のみを強く主張し、他のものをまるで認めようとしないのであります。そういう姿勢からは世を平和にし、人を幸福にする道は生まれてきません。
(中略)
 自分以外のものを認めないというのは自我です。これは宗教のもっとも基本的態度、もっとも基本的資格を自ら忘れ果てている悲しい人々であります。お互いが価値を認め合う豊かな菩薩の心にめざめたいものです。


・出典
心/高田好胤、第 Ⅰ 章 心に種をまく 見上げる心、p74~81

関連場所、商品

こういう考えをした人の元で育った人はこういう考えを持って世の中を生きていく。そして、その育った人の背中をみてさらに子どもが・・・。と、続いていくと、ねずみ算方式にこういう考えが増えていくかというと、そうでない。

本物の仕事というもの 心/高田好胤

 自分さえよければよしとする小さな利害にとらわれず、永遠なる彼方、遥かなる彼方に向かって無心に事業を押しすすめて行く。こういう心がなかったら、本当の仕事というのはできないのではないでしょうか。
 そうして、そういう人の姿を見て心から感動する。この心からの感動するという素直な気持ちも大切だと思います。現代はストレス時代といわれ、あまりにも刺激が多すぎます。だから、ちょっとやそっとのことでは心を動かさない。これが昂じて行けば感情のない人間、心のない人間となり、それはもはや人間でさえない。感動すべきときに感動するという心の素直さを持ちつづけることも大切なことだと思います。


・出典
心/高田好胤、第 Ⅰ 章 心に種をまく 見えざるものへの努力、p53.54

関連場所、商品

こんな仕事がしたいけれども、時間とお金、数字に追われている今の社会では難しいのかな。世の中の流れ、もっとスローにならないかな。ならないなら、この流れに対応するために変化しないといけないけど・・・。

日本人の美意識の特長 心/高田好胤

 日本の伝統美というのは、美しさを外へ出さずに、むしろそれをつつみかくすところにあります。忍ぶ心の美しさ、それが日本人の美意識の特長だと思います。桂離宮は何度見ても、そのたびに新しい美しさを発見することができます。ああ、ここにこんな美しさがあったんだな、とそのたびに新鮮な驚きが胸にわきます。深く沈んだ美しさがあるからです。しかし、東照宮は権力を誇示するための建物です。人の心をうつ、日本人の忍ぶ心の美しさとは縁遠いものです。

・出典
心/高田好胤、第 Ⅰ 章 心に種をまく 見えざるものへの努力、p45

関連場所、商品

桂離宮のように深く沈んだ美しさのある人間になりたいものです。それを見たことがない私が言うのもなんですが。

コツコツと努力 心/高田好胤

 目先のことだけを考えて、賢く振舞う人々が、今日の世の中をどんなにすみづらくしているでしょうか。これは家庭でも職場でも同じことです。薄情な猛烈主義とか出世主義を信じている者からみれば、人の嫌がる仕事をコツコツと努力する人は馬鹿に見えるでしょう。だが、そういう人が所謂「賢い人」よりも、いざというときには腰をぬかさないですむのです。本当にここ一番というとき、家のため、会社のため、国のためになる人なのです。
 今日の世の中にはあまりにも最小の努力で最大の効果をねらう者が多すぎます。努力するのはなるべく少なく、得るものはなるべく多く、これが能力主義という名のもとに行われているわけです。
 だが最小の効果を上げるためにも最大の努力を惜しまない、その精神の大切さ、(中略)。そして、それが現在の私の人生観となっているのです。


・出典
心/高田好胤、第 Ⅰ 章 心に種をまく 見えざるものへの努力、p40~42

関連場所、商品

・相反記事
アリとキリギリス ウサギとカメとトコちゃん/所ジョージ

相反記事と合わせて読むとどうすればいいか分からないくなる。そういう時は、自分はこっちと決めて人生を進んで行く方が良い、というようなことを鈴木敏夫さんが言っていた。

古い橋と新しい橋 心/高田好胤

 あの新潟地震が起きた。悲惨な事故が起きた大地震だったので記憶していると思いますが、そのとき構造力学的に絶対大丈夫だと言われていた、昭和橋が自身が起きた瞬間、ポキッと折れてしまったのです。
 ところが、その隣にある古い方の万代橋は大丈夫だったのです。私は橋の構造についての専門的な知識はありませんけども、この話から現代人はどうも見えざるものへの努力等ものが不足しているのではないかというふうに思えます。
 目に見えるところだけ綺麗に、華美にかざりたてる。見てくれはよいが、中身はカラッポ。そんな差が古い橋は大丈夫なのに、近代建築の粋を集めたはずの新しい橋が駄目だったということになったのではないかと思います。
 見えないものに向かって無限の努力をする、見えないところを大切にする、それが宗教心です。そういう宗教的な心を大切にした私たちの祖先が、法隆寺、東大寺、薬師寺など、あの上代の輝かしい世界的な文化を作り上げたのです。その根源の精神、宗教的な心がそれを謳いあげたのです。


・出典
心/高田好胤、第 Ⅰ 章 心に種をまく 見えざるものへの努力、p34,35

関連場所、商品

新しくできたものが、過去にあったものより素晴らしいかというと、必ずしもそうではないということがこの話で分かる。

物質と精神 心/高田好胤

 私は生活が便利になっていくことを否定するものではありません。科学は人間の偉大なる知恵が生んだものですから、人間はそれを享受するべきです。だが、物質的な豊かさというものが、精神的貧困の上に成り立っているのだとしたら無意味です。
 これも私の友人で、次男坊なんですが、やはり分家することになった。そこは裕福な家庭で、長男が父親の跡を継いで会社の社長をやっている。また、信仰心の篤い一家で、そういう心構えが事業を成功させていると思うのですが、そこで分家するなら仏壇も持って行け、と父親がいい、分家する若夫婦も喜んでそれに賛成した。この話を聞いて、最近めずらしいことだということで、私はさっそくお参りに行ってきました。
 そのとき、感じたことですが、その若夫婦の生活にはひじょうにうるおいがあるということです。社長の弟ですから金銭的には困らないはずですが、自分たちの新世帯は自分たちの力でやるということで、家具などは普通の家庭より少ない。だが、暮らしの中に笑顔は絶えず、精神的な豊かさというものを感じて私は帰って参りました。

・出典
心/高田好胤、第 Ⅰ 章 心に種をまく 人と人のつながり、p27,28

関連場所、商品

かといって、所持金0円、明日食べるものがない、ホームレスが精神を豊かにできるかというとそうではないと思う。だから、物質、お金は最低限大事だと思う。それらを得た上で、自分の収入に見合った生活をすることで満足が得られ、必要以上に欲しがらないようにしたいですかねぇ。

真の幸福 心/高田好胤

 -今日、私たちは幸せというと、目に見える物質的なものの中にだけ追い求めています。カラー・テレビが欲しい、マイカー族になりたい、マンションに住みたい。だが、これらは本当の幸せでしょうか? 私は真の幸福とは目に見えないところにあるのだといいたいのです。そして、そういう幸福を感じられる心は、お互いの苦労と努力、そして辛抱によってのみ得られるのであります。
(中略)
 人と人のあいだは、一方的に教えたり、与えたりしているのではない。教えると同時に教えられているのであり、与えると同時に与えられているのです。(中略)そういうことが人間関係の基調になって行かなければならないのだと思います。
 こういう人間信頼の気持は今も変わりございません。(中略)人の清らかな心というのは不変であります。職場においても、家庭においても、人間というものは教えつつ教えられている、与えつつ与えられているのだ、と思うことが大切なのです。

・出典
心/高田好胤、第 Ⅰ 章 心に種をまく 人と人とのつながり、p16~19

関連場所、商品

2015年1月18日日曜日

天下人の世界観を変えた、一輪のアサガオ そらみみ植物園/西畠清順

 利休の茶室の庭に、見事なまでにたくさんのアサガオが咲いていると噂を聞いた秀吉は、あるに利休に茶会を開くように命じた。
 "たいそう評判と聞く、利休の庭の朝顔が一体どれほどのものか"
 秀吉がそのアサガオをたのしみに茶室を訪れたその日、庭に入ると、咲いているであろうアサガオの花が一輪もない。驚くべきことに全ての花が切り取られていたのだ。不支持に思った秀吉がにじり口から茶室に入ると、アサガオが一輪、静かに床の間に活けてあった。
 利休は、あえて庭の全ての花を切り取り、逆に一輪の美しさをみせることによって、よりアサガオの美しさを秀吉に伝えたのであった。

 なんとその一輪の美しいこと-
 秀吉はその室礼にたいそう感嘆してしまったという。
 このように、千利休というたった一人の茶人の美意識が、世の中のなにもかもを思いのままにしてきた天下人・秀吉の美意識に対するアンチテーゼのみならず、500年も前から足し算ではない引き算の美学を世界レベルで先駆けて見つめていたという、日本人が誇るべき利休の美意識を物語っているような気がしてならない。

・出典
そらみみ植物園/西畠清順、世界を変えた植物、p146

関連場所、商品

秀吉という天下を取った人の美意識に感嘆を与えてしまう利休。自分の行うことでこのように一人の人間を感嘆させられたらどれほど嬉しいだろう。しかも、その相手が秀吉だと・・・。

植物と自殺 そらみみ植物園/西畠清順

 ひとが自殺する主な理由といえば、病気や生活苦、人間関係などが挙げられる。いずれにせよなんらかの理由で精神を患い、自らの意思で命を絶ってしまうのだ。これはもしかしたら人間に"脳"といわれるものがあるからなのかもしれない。
 2008年、マダガスカルで偶然発見されたとある巨大なヤシが注目を浴びている。その名こそ、自殺ヤシ。
 この自殺ヤシは、ある日突然自ら死ぬことを決める驚くべき性質をもっている。では、植物が自殺する理由は一体なんなのだろうか。脳をもたない植物は、"生活が苦しくなった"とか、"生きていても希望がもてない"など理屈で考えて死ぬわけではない。つまり自殺の理由はまぎれもなく種の保存と子孫繁栄のためなのだ。
 情勢が不安定なマダガスカルでは、政府が自然保護まで手が回っていないのが現状で、野生の自殺ヤシは30本ほどしかない。自殺ヤシは、ひとの手を借りることはできず、自分たちがまさに命を懸けて残りわずかな種の保存に尽力し、なんとか命を次世代につながなくてはならない。
 理由は多々あれど、せっかく授かった命を自ら絶つひとが増えていることを自殺ヤシが知ったら、"なんともったいない"と嘆くことだろう。

・出典
そらみみ植物園/西畠清順、愛を語る植物、p134

関連場所、商品

人間は自殺する唯一の動植物です。どんな動植物でも子孫繁栄のために、日々生きている。そう考えると人は、動物から離れて行っている唯一の種ではないだろうか。娯楽を求め、お金を求め、そうするうちにだんだん何が欲しいか分からなくなってきている。さてこれから私たちはどこへ向かうんでしょうか。

弱者が生き残る方法 弱者の選択/稲垣栄洋

 進化論で有名なチャールズ・ダーウィンの言葉に次のようなものがある。

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生きのびるのでもない。唯一生き残るのは、変化できるものである」

 人類の進化をたどれば、私たちは常に弱者であった。弱者は常にさまざまに工夫し、戦略的に生きることを求められる。そして、他の生物がいやがるような変化こそ、弱者にチャンスが宿るのである。
 我々の祖先は変化を受け入れ、困難を乗り越えながら進化を遂げてきた。私たちは、そんな「たくましき弱者」の子孫なのである。
 苦難の道を乗り越え、今や人類は万物の霊長として地球に君臨している。
 しかし、けっして驕ることがあってはならない。道具と火の力を借りて強さを誇っているものの、人類は自然界では弱い存在である。もし、丸腰のまま大自然の中に置き去りにされたとしたら、人間ほど弱い存在はないだろう。
 西洋の諺にこんな一節がある。

「一番強いものは、自分の弱さを忘れないものだ」

 私たちは弱い存在である。だからこそ、強く生きることができるのである。

・出典
弱者の選択/稲垣栄洋、第四章 あとがき、p170,171

関連場所、商品

状況に合わせて自分を変化させる。これはなかなか難しいです。なにかとこだわり、ポリシーというものを持ってしまうので、目の前の状況に対応するのではなく、自分のやりたいように解決してしまいがちですから。こだわり、ポリシーがなく目の前の状況によって変化できる。これがいいのかもしれないです。

人間を利用した家畜 弱者の選択/稲垣栄洋

 現在、人間が家畜として利用している動物の中には、自然界では弱い存在である生き物も少なくない。
 ウマも犬と同じように群れを作る動物である。そのため、犬と同じように、コミュニケーションを取ったり、リーダーに従順に従う能力に長けている。その能力が家畜として適しているのである。
 野生のウマは一夫多妻のハーレムを作る。つまり強いオスは、メスを独占することができる代わりに、弱いオスは子孫を残すことができないのである。弱いオスのウマにとって、人間は利用価値の高い存在なのだ。ウマは人間と暮らしていれば、肉食獣に襲われることは少ない。家畜になることは、身を守る上でも有効な手段なのである。
(中略)
 家畜というと人間に一方的に利用されているイメージが強いが、弱い動物である彼らにとっては、強い人間に寄り添うことは立派な戦略だったのである。
 まさかこんなにこき使われるとは思わなかっただろうが、今や世界中にどれだけの数の家畜がいるかを考えれば、分布を広げ、個体数を増やすという生物の目的から見て、彼らは間違いなく成功者であると言えるだろう。

・出典
弱者の選択/稲垣栄洋、第八章 強者の力を利用する、p165,166

関連場所、商品

・関連記事
飼い犬の戦略 弱者の選択/稲垣栄洋

飼い犬の戦略 弱者の選択/稲垣栄洋

 私たち人間が飼っているペットや家畜たち。もしかすると人間が彼らを利用しているようでいて、その実は彼らが人間を利用しているということはないだろうか。
 人に従順な飼い犬は、もともとオオカミの仲間を飼い馴らしたものである。オオカミは群れを作って行動する。リーダーや順位の上位の強いオオカミは、攻撃的である。しかし、順位の低いオオカミは、従順でおとなしい。そんな弱いオオカミが、現在の飼い犬の祖先なのである。
 ところが、「人間がオオカミを飼い馴らした」という話には謎が多い。犬が人間と暮らすようになったのは、一万五千年ほど前の旧石器時代のことであると推測されている。当時の人類にとって、肉食獣は恐るべき敵であった。しかも犬を飼うということは、犬にエサをやらなければならない。わずかな食料で暮らしていた人類に、犬を飼うほどの余裕があったのだろうか。また当時の人類は犬がいなくても、狩りをすることができた。犬を必要とする理由はなかったのである。
 最近の研究では、人間が犬を必要としたのではなく、犬の方から人間を求めて寄り添ってきたと考えられている。犬の祖先となったとされるよわいオオカミたちは、群れの中で順位が低く、食べ物も十分ではない。そこで、人間に近づき、食べ残しをあさるようになったのではないかと考えられているのである。
 弱いオオカミだけでは、狩りをすることができないが、人間の手助けをすることはできる。そして、やがて人間と犬とがともに狩りをするようになったと推察されている。こう考えると、当時、自然界の中で強い存在となりつつあった人間に寄り添うことは、犬にとって得なことが多かった。つまり、人間が犬を利用したのではなく、犬が人間を利用したかもしれないのである。

・出典(一部編集)
弱者の選択/稲垣栄洋、第八章 強者を利用する、p163,164

関連場所、商品

利用し、利用されている。これが自然界の掟でしょうか。私も家畜やペットは人間が利用しているものと思っていましたが、相手側からすれば人間を利用しているということでしょうか。うまいことできてます。

・関連記事
飼い犬の戦略 弱者の選択/稲垣栄洋

赤い女王の登場 弱者の選択/稲垣栄洋

 生物は敵がいることによって進化する。これを説明するのが、生物学者リー・ヴァン・ヴェーレンが提唱した「赤い女王仮説」と呼ばれるものである。
 「赤い女王」というのは、ルイス・キャロルの名作「ふしぎの国のアリス」の続編である「鏡の国のアリス」に登場する人物である。「鏡の国のアリス」の中で、赤い女王はアリスにこう教える。
「いいこと、ここでは同じ場所にとまっているだけでも、せいいっぱいかけてなくちゃならないんですよ」
 こう言われてアリスも赤の女王と一緒に走り出す。しかし、まわりの風景はまったくかわらない。まわりのものも全力で走るアリスと同じスピードで動いていたのである。だから、そこにとどまるためには全力疾走で走り続けなければならないのだ。
 生物の進化もこの話と良く似ている。
(中略)
 自然界では、ほとんどの生き物が攻撃する側であり、同時に攻撃を受けている側でもある。そのため、しのぎを削り合いながら、激しい進化の競争を繰り広げているのである。
 かくして、生物は常に、変わり続けているのである。

・出典
弱者の選択/稲垣栄洋、第七章、逃げられない植物はどうしているのか?p144,145

関連場所、商品

2015年1月17日土曜日

パイオニアという生き方 弱者の選択/稲垣栄洋

 新しくできた空き地に小さな雑草がたくさん生えている。
 じつは、新しくできた環境は、強者がすぐに入り込めないニッチである。環境が破壊された不毛な土地は、土の表面が露出しているので土が乾燥しやすい。また、栄養分も少なく土地はやせている。けっして植物が生えるのに適した場所ではないのだ。
 強者たる植物も、そんな場所ではとても実力を発揮することはできない。そんな不毛な土地こそが、弱い植物である小さな雑草の生存のチャンスの場なのである。
 もともとあった自然が破壊された環境に、最初に生える植物は植物学では、「パイオニアプランツ(先駆種)」と呼ばれている。つまりは「開拓者」なのである。
 先駆的なパイオニアが生える土地は、けっして恵まれてはいない。土は固く、根の成長を妨げる。水や栄養分も足りない。しかし、そんな環境でパイオニアプランツは成長を遂げていく。やがて、パイオニアプランツが根をはることで土は細くなり、通気性や保水性が改善されていく。また、枯死した茎や葉は分解されて肥料になり、土を豊かにしていく。そして、そこには次第に多くの昆虫や小生物が棲みつき、だんだんと豊かですみやすい土地になっていくのである。
 しかし、不毛の土地を開拓したパイオニアたちは、そこに楽園を築くとはできない。このようなパイオニアプランツの繁栄は長くて数年である。パイオニアプランツが生存し、豊かになった土地には、次々と力のある植物が侵入してくる。そうなれば、競争に弱いパイオニアたちは追いやられてしまうのである。やがて緑に覆われ、生き物たちの楽園になった環境には、パイオニアたちの暮らすニッチはない。
 先駆けるのたいへんなのは雑草も人間の変わらない。しかし、それで良いのだ。パイオニアたちは、すでに他の植物が入り込んだ土地には未練を残さず種を飛ばす。パイオニアプランツの種は風で移動するものが多い。そして、再び、新たな未開の大地に速やかに侵入してニッチとするのである。
 それが強者に真似できないパイオニアの生き方である。まさに挑戦し続けることを宿命づけられているのだ。
 もちろん、簡単ではない。しかし、他の植物が生えることができない、まっさらな大地に大いなる夢を描いて芽を出すパイオニアの生き方には、どこか美学も感じられる。そんな弱者の戦略である。

・出典
弱者の選択/稲垣栄洋、第四章 弱者必勝の条件、p95~97

関連場所、商品

パイオニア。開拓者。先駆者。聞こえはいいが、厳しい生き方ですね。これを厳しいと思う私はパイオニアには向いていませんが、これを読んでかっこいいと思う方はパイオニア向きですね。

ナマケモノの戦略 弱者の選択/稲垣栄洋

 ナマケモノとは「怠け者」の意味だから、ずいぶんとひどい名前をつけられたものである。
 しかし、その名にふさわしいほど、ナマケモノは動かない。何しろ一日二十四時間のうち、二十時間以上は眠っている。しかも動くスピードもじつにゆっくりである。わずか100メートルを移動するのに一時間も掛かるというから、相当にのろい。あまりに動かないので体にコケが生えるほどだという。
 他の動物たちはエサを求めて動き回り、敵から逃げ回っているというのに、どうしてこんなにものんびりとしていられるのだろうか。
 じつは、これもナマケモノの立派な戦略である。
 ナマケモノは南米に暮らしているが、そこではジャガーという肉食獣がいる。多くの生き物にとってジャガーは恐ろしい天敵である。何しろネコ科であるにもかかわらず水を怖がらない。水の中でも泳いで追いかけてくる。さらには木登りも得意だから、木に登って逃げようとしても俊敏なジャガーにすぐにつかまってしまう。南米のジャングルでは、ジャガーから逃れられる場所はないのだ。
 そこで、ナマケモノはジャガーに見つからないように、徹底的に動かない戦略に出たのである。ジャガーなどの肉食動物は動体視力は優れているが、木の葉の茂った中にいる動かない獲物を見つけることは得意ではない。さらには、ナマケモノの体に生えたコケも、身を隠すためには好都合である。
 しかし、ずっと動かずにいられるわけではない。何しろ生きていくためには、エサを探して食べなければならないのだ。
 ナマケモノの戦略はこうである。ナマケモノは毒のある木の葉をエサにしている。毒のある葉を食べる動物は他にはいない。そのため、必死にエサを探し回らなくても他の動物とエサを巡って争う必要がないのである。しかも、ナマケモノはほとんど移動しないでエネルギーの消費が少なく、食べる量もわずかでいい。まさに低コスト化に成功しているのである。
 それだけではない。さらに、ナマケモノは基礎代謝によるエネルギーの消耗を防ぐために、体温を維持せずに外気温に合わせて体温を変化させている。
 もっともっと、と活発に動きまわるだけが能ではない。動かず、目立たずに生き延びるナマケモノの戦略も、弱者の戦略としては秀逸なのである。


・出典
弱者の選択/稲垣栄洋、コラム3、p44,45

関連場所、商品

ナマケモノって怠けるために怠けたのではなく、生き残るために怠けたんですね。これも進化なんでしょう。ということは人間のナマケモノの進化してそうなったということですか? この考え方は再考してみる価値がありそうです。

チーターから逃げる方法 弱者の選択/稲垣栄洋

 動物の中でもっとも走るスピードが速いのがチーターである。チーターの走る速度は、時速100キロメートルを上回るというから、驚くべきスピードだ。一方獲物となるガゼルのスピードは、時速70キロメートルに過ぎないというから、これでは、とてもチーターから逃げ切ることはできない。
 ところが、これだけ圧倒的なスピードの差があるにもかかわらず、チーターの狩り成功率は七割だという。つまり、三割ものガゼルは、猛スピードで追いかけてくるチーターから見事に逃げ切っているのだ。ガゼルは、どのようにしてチーターから逃げ切っているのだろうか?
 チーターに追われると、ガゼルは巧みなステップで飛び跳ねながら、ジグザグに走って逃げるのである。そして、ときには、クイックターンをして方向転換をする。チーターは直線では最高速度を発揮するが、ジグザグに走るガゼルを追いかけようとすると、最高速度で追いかけることができないのである。
 もちろん、ジグザグに走ったり、クイックターンをしていれば、ガゼルもまた自らの最高速度を出すことはできない。しかし、単純な直線距離の競争では、ガゼルがチーターに勝てる見込みは万に一つもない。走り方を複雑にすると、チーターもガゼルも、本来の最高速度を出すことができないが、そうして競争を複雑にすることによってはじめて、弱者のガゼルがチーターに走り勝つ可能性が出てくるのである。
 「強いものは単純に。弱いものは複雑に」これは勝負の鉄則なのである。

※チョウが鳥などの外敵の攻撃から身を守るための逃避行動(ひらひらと不規則に舞う)においても同じことが言える。


・出典
弱者の選択/稲垣栄洋、第一章 生き物にとっての強さとは何か?、p33~35

関連場所、商品

力あるものは真っ直ぐに、弱いものは工夫を凝らして。

現代社会と農の関わり方 農を遊ぶ/稲垣栄洋

 昔、農業や林業は暮らしと共にありました。田畑を耕しては食べ物を収穫し、山の木や草を材料に色々なものを作りました。自然に対して働きかけをしながら自然の恵みを受けて暮らしていたのです。農業や林業はその自然との関わり方そのものでした。そして自然と共存する知恵にあふれていました。
 現代はどうでしょうか。私たちは農業や林業と無関係に生活を送っているように感じます。自然との関わりがなくても生きていけるように思えます。しかし、私たち人間も生物の一員です。自然の構成員なのです。どんなに時代が進んでもこの真実は変わりません。自然の恵みを受け、自然との関わりなしには生きていけない存在なのです。現代の私たちの生活もどこかで自然の営みと、そして農林業とつながっています。ただ社会のシステムが高度に複雑化し、その繋がりが見えなくなっているのです。本当に大切なものが見えなくなりつつあるのです。

(中略)

 農山村に出掛ければたくさんの感動的な発見があります。農林業にふれることで、様々なことを感じ、学びます。都市と農村とが出会えば新しい何かが生まれます。しかし、農林業と言ってもまったくなじみがないし、何だか難しそう、というのも事実でしょう。それだけ私たちは農林業とかけ離れたところで暮らしています。農の魅力に触れ、農に親しもう、そして農を考えてみよう。(中略)
 いくら農が生きる上での基盤だと言っても、今の時代、すべての人が農林業をやることや、すべての人が自給を目指すことはナンセンスです。しかし、すべての人がどんなに些細なことでも農に関わり、毎日の生活のちょっとした時間に農を感じることができるとしたら・・・・・・。だから、みんなで農に関わりたいのです。

・出典
農を遊ぶ/稲垣栄洋、はじめに、p2,3

関連場所、商品

町にいると当然のようにスーパーには野菜や肉、魚が並んでいて自然とつながっていると分かりにくいですね。今の子どもの中には魚は切り身になっているものしか見たことがない子もいるそうです。世の中の分業がかなり進んでますが、他の命を頂いて生きているという感覚は忘れないようにしたいです。

大切なのは見えない部分(活け花について) プラントハンター/西畠清順

 作品の完成度ももちろん重要ですが、「それ以上に"見えない部分と過程"が大事」というのは銀閣寺に伝わる活け花の特色でもあります。花の美しさより花を活ける場の支度、水を汲みに行くときの心の持ちようなど、活ける以前の過程が大事だという考え方なのです。
 花の活け方にもそれは表れています。銀閣寺が教えている作法では、花瓶の中にわらを束ねた「こみわら」という花留めを用います。「こみわらにどれだけまっすぐに、枝や茎が交差しないように活けることができるか」ということが大切であり、花瓶の中にあって見ることができない部分が、その花においていちばん美しい部分とされています。目に見える花がどうでもいい、と言うわけではありません。そこに立てる花が美しければ美しいほど、花瓶の中身や、その花を用意するための過程がより引き立つことになるからです。
 (中略)
 珠寳先生は「過程が大事」と言ってくれた。

・出典
プラントハンター/西畠清順、銀閣寺の花、p198.199

いけばな | 銀閣 慈照寺 研修道場

関連場所、商品

人は目に見えるものだけを大事にしがちだけど、本当は目に見えないものにこそ価値がある。その見えないものを見ようとするか、そうしないかが問題ですね。

一流の職人の気質 プラントハンター/西畠清順

 昼名を買うため、みんなで車に分乗し山を下りてコンビニに向かいました。いちばん下っ端の私は当然運転係です。コンビニに到着すると、駐車場の空いているところを見つけて車をとめました。さあ昼飯だ。腹ペコだった私は一目散にお店に向かおうとしましたが、半歩踏み出したかどうかというところで先輩の職人に呼び止められました。
 (中略)
 なぜその職人が鬼のような形相で怒っているのか理由がわかりません。
 (中略)
「切り返しが一回多い!」
「はい・・・・・・?」
「おまえな、ここにバックで入れるとき何回切り返した?」
「二回・・・・・・」
「アホ、三回や! 隣がギリギリなわけでもないのになんで三回も切り返しとんねん」
「すいません」
「最後に微調整でもう一回切り返しよったやろ? あれ余計や。二回でビシッと決めんかい、いらいらする」
 そう言うと、職人はコンビニへと足早に向かっていきました。
 たった一回の切り返しでも、無駄なものは無駄。それが職人の世界です。効率、スピード、質。すべてを兼ね備えていないと一流の職人とはいえません。(中略)一中の職人は例外なく短気です。非効率的で時間のかかることを極端に嫌うからです。その人も典型的な職人気質だったので、私の無駄な切り返しが気に入らなかったのでしょう。
 こうして私は職人の世界にどっぷりと浸かっていきました。

・出典
プラントハンター/西畠清順、死と隣り合わせの職人修行、p122~124

関連場所、商品

一流の職人になりたいなら、ここまでこだわらないとダメなんですね。

2015年1月16日金曜日

人見知りは最高の才能 タモリの「われらラジオ世代」秘蔵版2014/4/21/タモリ

「芸能界で、人見知りでないと売れない」という内容について語っていた。「人見知りとは、まず相手のことを考え過ぎてしまうがために、対人関係において何か行動に移すことがなかなかできない人であり、自分のことより相手のことを考えられるのは素晴らしいことだ」

さらにそこから、「相手にとって、このような行動をとれば、相手は喜ぶ」という、人見知りのもう一歩先の行動ができれば、みんなの気持ちを楽しく、豊かにすることができる、と語り、そうした人の気持ちを察して行動できる能力を持ちあわせていないと、芸能界で生き残っていくことはできない。


・出典
世界は数字で出来ている、タモリが語る、人見知りこそが芸能界で活躍できるワケ
http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-3903.html

・関連場所
ヨルタモリ - フジテレビ

タモリ倶楽部

タモリ料理レシピ 紹介-NAVERまとめ

虹色の木が教えてくれること そらみみ植物園/西畠清順

 たとえば、お絵描きが大好きな子供が、
 "今日はなにを描こうかなー"、なんて話している。
 真っ白な画用紙を用意して、絵の具や色えんぴつ、それにクレパスも。
 "じゃあ、今日は大きな木を描いてみよっかな"
 そういって描き始めたら、できあがった木はオレンジ、黄色、緑、紫・・・・・・いろいろな色が虹のようにまじっているなんともカラフルな木だった。
 "子供の想像力は豊かなものだなぁ"と感心するが大人なのかもしれない。大人は、いままで自分が見てきたものを"常識"として勝手に解釈し、ついついそこから全てのことを予想し判断してしまうのだ。だからおとぎ話でもないかぎり、木の幹は茶色、葉っぱは緑に描いてしまうことだろう。もっとも、パプアニューギニアなどに行って、レインボーユーカリを目の当たりにしたら、話は別かもしれないが。

・出典
そらみみ植物園/西畠清順、マジで!?な植物、p86

関連場所、商品

虹色の木。ファンタジーの世界のようですが実際に存在するんですね。ファンタジーと現実って案外そう遠くないところにあるんですかね。

植物そして、旅 そらみみ植物園/西畠清順

 たとえばずっと片想いだったからなのか、遠い異国の地でみたからなのか、出会うまでの道のりが険しかったからなのか、それとも孤独だったからなのか。
 たしかにそういう感情が手伝って、旅の果てに出会う植物が必要以上に魅力的に感じてしまうことがある。
 ジミ・ヘンドリックスが、初めてクラプトンを聞いたときは"いいね"って言ったくせに、次にきいたときは、"クラプトンの演奏でいいと思ったことはない。音楽ってのは、聞いたときの気分の問題だ"と言った。音楽でも植物でもそうだけど、それと出会ったときにどう感じるかって、たしかにそのときの状況や情景の影響は大きいと思う。
 けど、一目見ただけで、「ああ、会えてよかった」と、一瞬で思える植物って、やっぱり特別な力をもっているのではないか。神が作った彫刻のような植物。命を懸けても近づきたいと思わせてくれる植物。そんな、シチュエーションをぶっ飛ばす、植物との出会い。いや、結局シチュエーションはそこにある植物が作り上げていたりするのかもしれない。
 おれが旅する理由は、植物である。植物に用があるから、たまたま遠い国へ出かけるのだ。別に旅そのものに興味があるわけではない。とにかく自分の一生を想ったとき、そういう植物に出会えることこそが、おれの人生のハイライトであり、この仕事が天職だったと思えるのです。

・出典
そらみみ植物園/西畠清順、植物そして、旅、p54,55

関連場所、商品

ウチワサボテンとイグアナの小さな格闘 そらみみ植物園/西畠清順

 遠い昔の話。陸イグアナはお腹がすくといつも近くにあったウチワサボテンをかじり、胃袋をみたしていた。あまりにも体をかじられるので、腹が立ったウチワサボテンは、長年をかけて硬い幹をまとい、背を高く伸ばすことに成功した。そうしたら、陸イグアナは以前のようにウチワサボテンをかじることができず、ただただ指をくわえてみているしかできなかった。そんな陸イグアナたちの死活問題を尻目に、かじられることもなくなったウチワサボテンは、悠々自適な日々を送っていた。
 そんなある日、陸イグアナと海イグアナが出会い恋に落ちた。そして子供を産んだ。うまれた水陸両用のハイブリッドイグアナは、陸イグアナのように陸で暮らすのだけれど、海イグアナのようなするどい爪をもっていて、なんとその爪でウチワサボテンの硬い幹をよじ登り、また以前のようにウチワサボテンの柔らかくておいしい部分をかじり始めたのだ。これにはウチワサボテンもびっくり。せっかく進化して、かじられないように背を高くしたのに。いまのところ、ウチワサボテンとイグアナの進化の競争はイグアナが優位のようだ。
 このガラパゴス諸島で繰り広げられている小さな格闘が今後どう展開していくか、長い目で見守りたいところである。何千年、何万年という進化の単位で。

・出典
そらみみ植物園/西畠清順、イラっとする植物、p36

関連場所、商品

自分を変えたいっていうけど、何千年、何万年単位で変化してきた植物、動物に比べると人間一人が寿命の間で起きる変化なんて微々なるものなのかな。

ライオン殺シ そらみみ植物園/西畠清順

 その植物の果実は、鉤爪のような形をしていて、アフリカのサバンナでゾウやサイに踏まれるのをひたすら地面で待っている。
(中略)
 百獣の王ライオンの場合は足が小さいだけに踏むことはない。しかしサバンナを歩いていてその鉤爪が体毛にひっかかることがある。イラっとしたライオンは、ひっかかったその鉤爪を、口でつまんで離そうとする。すると最終的には鉤爪が上顎と下顎を縫い合わせるように食い込むのだ。
 こうなったら最後。さすがの百獣の王ライオンもこれにはなすすべがない。(中略)ライオンは獲物を食べることもできず飢えて死ぬことになる。力尽き倒れたライオンの死肉は、その鉤爪のような果実の種にとって格好の肥料になるであろう。

・出典
そらみみ植物園/西畠清順、イラっとする植物、p28,29

関連場所、商品

 まさか、ライオンを倒してしまう植物がいるとは!!じゃあ、人間を一番殺している動物は何かと言うと、一位は蚊、二位は人間ときている。サメやライオンなんかに比べるとはるかに、蚊や人間の方が危険生物だという事実に驚いた。

・参考サイト
人間にとって最も危険な生物は何か? 1年間で70万人以上を死へ追いやる超危険生物は意外なアイツ

2015年1月14日水曜日

才能のある人/所ジョージ 所さんの世田谷ベース(2014/10/21)より

誰もが才能を持ってるんだけど、考えたところで、「面倒くせぇな」「出来上がりも悪いんじゃないかな」って、大人だから思っちゃって、やらないじゃん。

それで、「俺は才能ねぇな」って言ってるんだけど、それを「とりあえずやってみよう」って、やってみて、ずっとやり続けて、失敗して「ああ、ダメだな…」ってところの繰り返しができる人が、才能ある人だと思うんだ。

だから、エネルギーをずっと使えて、先のことが読めるんだけど、「どうせ上手くいかねぇな」でやめない人。上手くいかなかったとしても、「やってみて面白いんじゃないの?」って思える人が、才能あると思う。私はね。


誰しもが思うんですよ。「こんなことやったら、こうなるな」って。でも、それを実際にやって、できちゃうのが凄いんですよ。やり続けることが、才能なんですよ。


・出典
所さんの世田谷ベース(2014/10/21)、世界は数字で出来ている
http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-5918.html

関連場所、商品

このブログもそんな感じです。

2015年1月12日月曜日

仕事、エネルギーについて 所さんのランチボックス/所ジョージ

[仕事は楽しくやらなきゃね]

本来、仕事なんて楽しいほうがいいに決まっているのに、楽しく仕事をしていると不真面目に遊んでいるように受け取られる風潮が、まだまだ日本にはあるのだ。

出典:p32

[身近にあるエネルギー]

身近にあるエネルギー。
自分の才能、力、これはたいしたことない。無人島で一人すぐれていても、仕方ないのだ。
相手があって場所があって、出すべきところで出る、出せる。このあたりをよく考えよう。どんなに自分のまわりが大事なのかを知ると、つまりは自分の才能に戻るわけ。
たとえば、乳首は胸の先にあって魅力を放つもの。親指の先にあってもダメ。胸の魅力をお借りした、胸の魅力の句読点として隠されてこそ、存在ありなのだ。
親指の先でどうどうと出されても、さてさてさて。
完全に話が終わってしまった今、ゆっくり自分に戻ります。

出典
所さんのランチボックス/所ジョージ、p184

関連場所、商品

仕事を楽しんでいると、不真面目に遊んでいるように見られるというのは、どこにいってもそんな気がします。でも、テレビに出ている人が楽しそうにしていなかったらチャンネルを変えられるのと同じように、楽しそうにしていない人に人は寄ってこないですもんね。

金の玉子(要約) ウサギとカメとトコちゃん/所ジョージ

むかしむかし、あるところに、ニワトリを飼って、ニワトリの産むタマゴを売っては、生活をしている村人がおりました。

さてある日のこと、その村人がいつものように、ニワトリ小屋をのぞいてみると、何やら小屋全体が金色に輝いているではありませんか。

「お、あの金色はなんだ。ニワトリが、婚約でもしたのかな、金のエンゲージリングで」
ニワトリ小屋に輝く、金色の固まり。そうです。金のタマゴが、産み落とされていたのです。
村人は、そのタマゴが金であることを確かめると、喜びました。大いに喜びました。喜びが大きくなりすぎ、踊りはじめました。

「この金のタマゴを産んだのは、どのニワトリだろう」

村人は、ニワトリ小屋のニワトリたちを見まわしました。
ニワトリの中に、いたよ、いたいた、金のタマゴを産んだニワトリが。このニワトリにちがいないというニワトリが。
どうして、すぐに、そのニワトリじゃないかとわかったかというと、ニワトリの腹がすごかったからです。

ともかく村人は、そのニワトリの産んだ金のタマゴを、町に売りにいきました。

ところが町で、いい返事はもらえませんでした。
というもの、日頃のクセで、村人はタマゴ屋さんに持って行ってしまったからでした。

なんやかんやあって、村人は、貴金属屋のおやじに会いました。

「こ、これは、ウワサにだけ聞いたことのある、金のタマゴ!」
「どうか、その金のタマゴを買ってていただきたいんですけど」
「いいでしょう。一個1万円で買いましょう」
やった! 村人は、大喜びです。
「また金のタマゴを持ってくれば、いつでも一個1万円で引きとりましょう」

バケモノのような金のタマゴを産むニワトリは、毎日、決まって一個ずつ、金のタマゴを産み落としました。

村人が、そのタマゴを貴金属屋に売ると、毎日毎日1万円ずつもらえるし、そのお金で、村人はどんどんリッチな生活になるし、すべては、順調でした。村人に、悪魔がささやきかけるまでは・・・・・・。

その朝、村人は、いつものように、ニワトリ小屋に、金のタマゴを取りにいきました。

村人は、ばさりばさりと羽ばたくニワトリの羽毛を浴びながら、ヒソヒソと悪魔がささやきかけてくるのを感じました。
「そのニワトリの腹の中には、金のタマゴがぎっしりつまっているぞ」「ぞ」「ぞ」「ぞ」「そのニワトリを殺せ」「せ」「せ」「せ」「ニワトリを殺して、腹の中のタマゴを集めろ」「ろ」「ろ」「ろ」

こうして村人はニワトリの腹をさきました。

ところが当然ながら、ニワトリの腹の中には、タマゴなんが一個も入っていませんでした。
「しくじっちゃった」

しかしです。どういうワケだか、村人はちっともガッカリしないではありませんか。

「村人さん、金のタマゴを産むニワトリが死んでしまったのに、どうしてがっかりしないんですか?」
「ハイ。それはですね、考えかたの問題ですね。金のタマゴが、もう手に入らなくなったと考えてしまうと、ガッカリしますが、これを、『金のタマゴが手に入らなくて元』と考えると、これは、ただたんに、以前の生活に戻っただけのこと。悔やむことは、ちっともありません」

こうして、幸せな考えかたの持ち主の村人は、ガッカリするどころか、殺したニワトリで、その晩は、たいそう豪華なトリ料理に舌つづみをうったということです。

めでたし、めでたし。


教訓!

人間、何もないもが元。なくしものも、考えようで幸せになれる

・出典

ウサギとカメとトコちゃん/所ジョージ、p139~154(要約)


関連場所、商品

2015年1月11日日曜日

きたかぜとたいよう(要約) ウサギとカメとトコちゃん/所ジョージ

ある日北風は、いつものように、ピープーピープー、肩で風をきってふいていたんだとさ。
その北風に、肥をかける、きたないヤツがおりました。おいおい、それは声でっしゃろ。

なんやかんやあって、北風と太陽は勝負することになりました。北風は、
「旅人がコートを着てる。あのコートを、どっちが先に脱がすか、これが勝負だ。いいな」
「かしこまりました」
ともかく、このけんか、先行は北風に決まった。

北風は、自分の風力にものをいわせて旅人のコートを吹き飛ばそうとした。
しかし旅人は、
「この風で、コートを吹きとばされては、寒くてかなわん」
と、コートのエリを必死で握りしめて、押さえた。結局、旅人のコートは、吹きとばされなかった。
「今度は、私の番ですね」
太陽は、ひたすらめじめに、旅人を照らし始めた。
「いやあ、いい陽気になった。コートなんかいらんなァ」
といったかと思うと、デロリンコシャンとコートを脱いだ。

北風は、負けてヤケになって、さっきの3倍くらいの風を、旅人にぶつけた。
転がる旅人。血まみれと化した。
しかし、北風は攻撃をやめず、旅人は転げ回りながら全身の骨という骨を全ており、全治十数年の傷を負い、北風は、傷害罪で逮捕された。

北風がシャバにいなくなったおかげで、世の中はホノボノとした日々が続いた。
そんな平和な日々に人々は、すっかりバカになってしまった。
そんな日々をうち破ったのは、やはり北風だった。北風は刑期を終えて、出所したのだ。

「オレは、昔のオレじゃねェぜ」
北風は、自信まんまんだった。太陽に勝つ方法をみつけたからだった。
そのルールとは、言ってみれば簡単なことだった。
「どっちが先に、旅人にコートを着せるか」
どうして、こんな簡単なことに気がつかなかったのかというくらい、簡単なルールで、北風は、太陽に圧勝した。

その後、世の中には北風が吹きまくった。これが世にいう、氷河期のはじまりの一席でありました。
おそまつ。


教訓!
ルールは自分が勝てそうなルールがいいよ。

・出典
ウサギとカメとトコちゃん/所ジョージ、p125~137(要約)

関連場所、商品

2015年1月10日土曜日

塵も積もれば山となる アクエリVSポカリ:登山家・竹内洋岳 公式ブログ

Img_8478
「アクエリ」こと「アクエリアス」 「ポカリ」こと「ポカリスエット」
夏山はもちろん、冬山は、暖かいホット・アクエリアスや、ホット・ポカリスエットをテルモスに詰めていくのも、おススメです。
日本のスポーツドリンクの二大ブランド。 NHKで「スポーツドリンクを飲んだ」と言ったら、アクエリアスかポカリスエットを飲んだのかな~って思うほどですよね!
話は、とっ散らかるけど・・・ 以前、NHKの番組に出演したとき、「ラジコン」と言ったら「無線操縦の・・・」と言い換えてくださいと言われましたよ! 「ラジコン」は、「ラジオコントロール」の略ではなくて、登録商品名なんですって。
さて、ラジコンはさて置き。
あなたは、アクエリ派? ポカリ派?
味を比べてみると、ポカリスエットの方が甘く感じますね。 まあ、味は、人それぞれ好みがありますので、お任せするとして。
スポーツ用の「スポーツドリンク」・・・スポーツにもいろいろありますから、その中で「登山」には、どっちだ?
先ず、カロリーを比べてみましょう。Img_8479 Img_8480
アクエリアス(1リットル)186Kcal
ポカリスエット(1リットル)288Kcal
同じ1リットルでポカリスエットの方が約100Kcal高いエネルギーがあります。 水分補給と一緒にエネルギー補給もできるから、カロリーが高い方がいい?
ちょっと待った!
アクエリアスとポカリスエット、二つを手に取ってみると、ある違いに気が付きました!Img_8482
アクエリアス(1リットル用粉末)51.5gImg_8481
ポカリスエット(1リットル用粉末)77.5g
同じ1リットル用で、アクエリアスの方が26g軽い! つまり・・・ アクエリアス(1リットル用粉末)3袋とポカリスエット(1リットル用粉末)2袋が、ほぼ同じ重さになります。
一日1袋使用するとして5日間の登山となると・・・ 130gの違いが出てきます。
チリも積もればエヴェレスト・・・ もし、9袋になると・・・その差は234gで、プリムスの一番小さなガスカートリッジ「IP-110」(ガス内容量110g)の重量230gと同じになってしまいます。
カロリーを取るか、軽さを取るか・・・ うーん・・悩みますね・・・
しかし! 山というなら、軽量化! 持っていかなければならない道具はたくさんありますし、持っていかないわけにもいかないものも沢山あります。
靴や、クライミングギアや、ウエア―と違って、行動食ではない、食料、飲料のストック分は、テントや寝袋と同じように、使っている時間より持って歩いている時間の方が長いのですから、少しでも軽くしたい!
山には「軽い」アクエリアス!がおススメ!

・出典
アクエリVSポカリ
http://weblog.hochi.co.jp/takeuchi/2014/11/post-d775.html

関連場所、商品

体力が少ない人は荷物は軽めがいいですね。体力がついてから背負える荷物は背負えるようにしないと進めないので、結局、捨てる羽目になりますね。

アリとキリギリス(要約) ウサギとカメとトコちゃん/所ジョージ

季節は初夏。
アリさんは寒い冬も食べ物に困らなくて済むように一生懸命働いておりました。一方キリギリスはバイオリンを弾きながら楽しんでいました。

「くだらない努力なんかしないで、精いっぱい遊ぶがいいじゃないか。」
「みんなが楽をしている時こそ苦労をする。そうすれば、みんなが苦しい時に、楽をできんだ。遊んでばかりいると、あとで苦労するんですよ。」
「おおきなお世話だ。おれは、今楽しければそれでいいんだよ!」
そう言ってキリギリスは楽しそうにバイオリンを弾きながら、行ってしまいました。
「あれで、本当に楽しいんだろうか。まあいいや。私は、一生懸命やるだけだ。」

ところが夏が終わる頃アリさんの集めた食料は、生物も何も、いっしょくたに集めいていたので半分腐ってしまいました。その腐ったゴミをゴミを出す日と間違えて出してしまい、近所の主婦たちから攻撃されてアリの数は半分になってしまいました。

ここで登場するのが大メシ喰らいの、女王アリであります。
色気もそっけもない体型から、食べ物を要求するから大変。ムコさんは来ないわ、食べ物はなくなるわ、働きアリの食うもんはなくなくわの、大騒ぎ。とうとう、食べ物はすっかりなくなってしまいました。しかもさらに都合の悪いことに、女王アリがこれです。結婚できません。ということは、子孫が残せません。

八方ふさがりのアリさんたちは、とうとう、一匹、また一匹と死んでいきました。アリさんは、
「ああ、あの時、キリギリスさんの言うとおりに、面白おかしくあそんでいればよかった。」
と、後悔しながら、息絶えていきました。

例のキリギリスは、だんだん寒くなって来たので、
「そろそろ、潮時だな、こりゃ。」
と、あたたかい南国へ旅立ち、今では、南国の豊かなパパイヤやマンゴに囲まれて、リッチなリゾートライフを楽しんでいるということです。

めでたし、めでたし。


教訓!
今が楽しければ、やっぱり楽しいの。

出典
ウサギとカメとトコちゃん/所ジョージ、p10~24(要約)

関連場所、商品

・相反記事
コツコツと努力 心/高田好胤

 相反記事と合わせて読むとどうすればいいか分からないくなる。そういう時は、自分はこっちと決めて人生を進んで行く方が良い、というようなことを鈴木敏夫さんが言っていた。

若男女老 投稿四字列語/所ジョージ

若男女老(にゃくなんにょろう)
東京都・冨士原美智子さんの作品

「老若男女」は言いにくいので言いやすくしようとして、ますます言いにくくなってしまったことから、考えすぎて良い結果を生まない意

【先生のお言葉】
これはやられたなあ。私は「四字列語」を出版した後も、毎晩机に向かって新作を考えることを自らに課しているんですが、どうやら最近考えすぎの領域にいっちゃっていたんですね。この作品にはルールの中にある自由を感じます。肩の力を抜いて、ちょこちょこと手先で器用にやられると、「うーん、それでいいんだよ」と唸ってしまいますね。Aクラス黒帯二段

・出典
投稿四字列語/所ジョージ 、p101

関連場所、商品

・関連記事
”フワッと乗る”がバイクの極意 バ・イ・ク/柳家小三治

何事も考えすぎず、素直に進む。これが一番いいのかもしれませんね。

2015年1月7日水曜日

3月のライオンの題材の設定理由 3月のライオン 1/羽海野チカ

いろんな方になぜこの題材を?
との質問をいただきましたが
まだうまく説明できないのです

ただ気になってしまったんですよ
どうしても

ただマンガ作業というものは
果てしない自問自答に似ています

「どうしても気になってしまった」
という事は

今の私が
「どうしても考えなければならなかった事」
が きっと

その箱に入っている
--という事なのでしょう

私が零君と一緒に真剣に
「迷い」「考えつづける旅」を
どうか見守っていただけたら
・・・と思います



・出典
3月のライオン 1/羽海野チカ、ウミノとゆかいな仲間たち(あとがき)

関連場所、商品

・関連記事
忘れたい、忘れたくない 宮本武蔵 (二)/吉川英治

いまみんな忙しくて「気になってしまった」ことを考える時間がないかもしれないですね。時間の使い方は大事ですね。

誰かがふと思った 寄生獣(1)/岩明均

地球上の誰かがふと思った

『人間の数が半分になったら
いくつの森が焼かれずにすむ
だろうか・・・・・・』

地球上の誰かがふと思った

『人間の数が100分の1になったら
たれ流される毒も100分の1になるだろ
うか・・・・・・』

誰かが  ふと思った
『生物(みんな)の未来を
守らねば・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・』



・出典
寄生獣(1)/岩明均、第1話 侵入、p1,p2

関連場所、商品

見栄っ張り 闇金ウシジマくん(1)/真鍋昌平

アホ女の基本は、
見栄っ張りだよな。

自分をちゃんと知っている奴は、
身分相応に生活すンだろ。

無理して相手に合わしても
その場限りだし、
無理して着飾っても
一瞬の優越感しか味わえねぇ。

見栄っ張りの連中は、
そんなのが無意味だって
のに気づかねーのな!


・出典
闇金ウシジマくん(1)/真鍋昌平、第3話若い女くん[前編]p84,p85

関連場所、商品

見栄を張らず、身の丈の生活で生きていこう。俺。

奪い合い 闇金ウシジマくん(1)/真鍋昌平

強い国は弱い国から奪い、
資本家は労働者から奪い、
政治家は国民から奪う。

世の中は奪い合いだ。

ちょっとずつ気付かねェようにしてるだけで、
俺が『奴隷くん(債務者)』から奪うのと
なンも変わらねェ。

奪るか奪られるかなら、

俺は奪る方を選ぶ!


・出典
闇金ウシジマくん(1)/真鍋昌平、第1話奴隷くん p46,p47

関連場所、商品

罪悪感 闇金ウシジマくん(1)/真鍋昌平

お前に罪悪感があるなら、
なぜ日常では感じない?

豚を殺す、罪悪感もなく
コマ切れの肉を食い、
自然を壊す罪悪感もなく
モノをゴミにする。

今の生活は
負担を感じないように
出来ているから
人間が鈍感になる。

そして、客の中には・・・

同情に値する人間なんて、
一人もいねェ。



・出典(一部抜粋)
闇金ウシジマくん(1)/真鍋昌平、第1話奴隷くんp42,p43

関連場所、商品

・相反記事
人間を利用した家畜 弱者の選択/稲垣栄洋

 相反記事と合わせて読むと、家畜というものを改めてどういうものか考えさせられます。
 鈍感ということに関しては、当たり前のように肉を食べていますが、その食べている肉を細切れにしている場所に見学に行く気にはなれないですよね。たしかに鈍感になってきています。しかし、鈍感が全て悪いかというとそうでもないと「鈍感力/渡辺淳一」を読んで思いました。

2015年1月4日日曜日

命令 寄生獣(2)/岩明均

ハエは・・・

教わりもしないのに
飛び方を知っている

クモは教わりもしないのに
巣のはり方をしっている

・・・なぜだ?

ハエもクモもだた「命令」に
従っているだけなのだ

地球上の生物はすべて何かしらの「命令」を
受けいているのだと思う・・・

人間にはどんな「命令」がきているのか

・出典
寄生獣(1)/岩明均、p18,19より一部抜粋

関連場所、商品

教えられもしないのに知っていることって実際あるんですね。そうなると教えるということにどれだけの価値があるんでしょうか。