はるか二千五百年前、お釈迦さまは尼連禅河のほとりで座禅を組まれて、ついに大きな悟りをひらかれた。しかしお釈迦さまは、自分が得たこの心境は人にはわかってもらえないとお思いになり、いったんは説法を断念された。なぜかというと、お釈迦さまは、言葉や文字の限界を熟知しておられたからです。
(中略)
説法とは、自分の思いを文字や言葉に託して多くの人に対して表現していこう、伝えていこうとすることです。しかし、「清く正しく生きる」という単純明瞭な言葉でされ、みなさんの人生経験のかなでしか解釈したり意味を感じることはできません。しかもみなさんは、生まれた時代も、育った環境も、人間関係もすべて違います。「オギャー」と生まれて今日に至るまで、さまざまな経験を積み重ねて現在のその人がある。なので、十人いれば十人それぞれの解釈があるのです。
それでも私たちは、自分の真心とか優しさとか愛情を家族や友人に伝えようとしたら、言葉と行動でしか示せません。自分は本当はこう思っているのに、なぜわかってくれないのだろう、と歯痒い思いをするのは、誰しも経験するところです。人間がわかりあうことはたいへんにむずかしい。そして、もしわかりあえたとしても、価値観や利害関係が違えば、やはり仲違いすることになります。まさにこの日常が行であります。
・出典
忘れて捨てて許す生き方/塩沼亮潤、日々を生きる、日常が行、p133~135
・関連場所、商品
0 件のコメント:
コメントを投稿