「恩着せがましくいうのじゃないが、いつまでも覚えてくれているだろうな」
「ええ、ご恩は」
「そんなことじゃない、おれがまだ独り身だということをさ。・・・・・・伯父の半蔵がやかまし屋でなければ、邸へ連れて行きたいところだが・・・・・・まあいい、小さな旅籠がある、そこの亭主も、おれのことはよく知っているから、おれの名を告げて泊まるといい。・・・・・・じゃあ、おさらば」
先の好意はわかるし、親切な人とも思いながら、その親切に少しも欣べないばかりか、親切を示されれば示されるほど、かえって厭わしくなる人間というものはよくある。
拓殖三之丞に対するお通の気もちがそれだった。
(底のわからない人)
という最初の印象が妨げるせいか、わかれに臨んでも、狼から離れたように、ほっとはしたが、心から礼をいう気になれない。
かなり人みしりをしない城太郎さえが、その三之丞とわかれて峠を隔てると、
「いやな奴だね」
と、いった。
きょうの難儀を救われたてまえにも、そういう陰口はいえない義理であったけれど、お通もつい、
「ほんとにね」
と頷いてしまい、
「いったいなんの意味なんでしょう、おれはまだ独り者だということを覚えていてくれなんて・・・・・・」
「きっと、お通さんを今に、お嫁にもらいに行くよという謎なんだろ」
「オオいやだ」
それから二人の旅は至って無事だった。
・出典
宮本武蔵 (三)/吉川英治、孤行八寒、p172,173
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・相反記事
たかが金 竜馬がゆく 一 /司馬遼太郎
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